無人島に一冊本を持って行けるとしたならば、という中島らものエッセイがあった。
らも氏はボードレールやマンディアルグ、セリーヌ、バロウズ、ヘンリー・ミラーなど、超硬派なチョイスをかましつつ、ジャイアント馬場の自伝や大菩薩峠、甲賀忍法帖などエンタメに心もなびかせる。百科事典や電話帳などもあげ、最終的には白紙の原稿用紙がいいだろう、という綺麗なエッセイなのである。
中島らもはエッセイの中で好きな本を羅列することがあって、アンドレ・ブルトンやトリスタン・ツァラ、バタイユ、コクトー、アントナン・アルトーなど、シュルレアリスムやダダイズムへの偏愛を吐露されるのだが、それらをメモして本屋に行っても、どれも全く見当たらない。
大学図書館まで行ってようやく見つけて読んでみたものの、全く意味がわからない。
シュルレアリスムが難解なだけでなく、そもそもフランス文学の流れ、エスプリを押さえてないとわかりっこないのである。
かじっては挫折し、時にふとした言葉に感動しながら、気づけば中原中也ばかり読んでいた、そんな高校生でありました。
というわけで、私が無人島に持って行くなら中原中也全詩集だろう。角川から分厚い文庫が出ているから、あれを延々眺めていたい。大岡昇平に宛てた「玩具の賦」などが私の好みだ。
高校生の頃よく読んだのはロートレアモン伯爵「マルドロールの歌」だ。伯爵というのは嘘で、本名はイジドール・デュカス。生前は無名のうちに没し、半世紀のちにシュルレアリストに発掘された詩人である。もう十年読み返していないが、その頃は毎日繰り返し読んだ。何が良かったのか思い出したい。
大学生の頃読んだものからなら、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」がいい。読み終えて、マコンドの村が砂と消え、本から目を上げれば広がる大海原、カモメの声が聞こえて、ますます寂寞。ラテン・アメリカ文学は無人島によく合いそうだ。
保坂和志の「カンバセーション・ピース」もいい。デビュー作「プレーン・ソング」もありだ。何度でも冒頭に戻って読み返すことができる。無人島にいながらも考えることをやめずにいられそうだ。
町田康の「告白」もよく読んだが、無人島には似合わない。そのほか「パンク侍、斬られて候」など様々な名作があるけれど、無人島で読む感じではない。
大学生の頃は他に山崎ナオコーラをよく読んだ。「人のセックスを笑うな」「カツラ美容室別室」「長い終わりが始まる」「論理と感性は相反しない」…。人との関わりをペタリと描く作品なのだが、無人島で読むのも乙な気がする。山崎ナオコーラにはM-1決勝で思いの外受けず六位に終わるも、私のようなある特定の人には熱狂的に支持される、みたいな魅力がある。もちろん褒め言葉だ。
会社に勤め始めてからなら、大西巨人の「神聖喜劇」か谷崎潤一郎の「細雪」か。あるいは津村記久子もいいのだけれど、これまた無人島にはあまり似合わない。
HMVがやっている「無人島~俺の10枚~」という、様々なミュージシャンに十枚のアルバムを選ばせる企画も面白い。なぎら健壱が立川談志のCDをチョイスしていたりする。
ビーチボーイズの「ペットサウンズ」はよく選ばれている印象がある。たしかに無人島に似合いそうだ。ならば、フリッパーズ・ギターの「ヘッド博士の世界塔」はどうだろう。悪くはない。小沢健二は無人島にあまり合わなさそうだけれど(コーネリアスは合いそうだ)。
超然とした音楽が良い気がする。はっぴぃえんどとか?まあ、好きなものを挙げてしまえばnever young beachか。belle and sebastian なんかも良さそうだ。
うーん、本と違って、こちらは考えだすとこれというのが言えない。不思議なことだ。
しかし、無人島で本を読んだり音楽を聴いたりするだろうか。
つまらないことを言うが、腹が減るのが心配だ。
そんならバカみたいだが、スーパー銭湯を貸し切って、気兼ねなくサウナに浸り、休憩室で本を読み、爆音で音楽を聴きたい。