最近、中原中也のことを考えていた。
中也は三〇歳で死んだ。
渋谷や下高井戸、高円寺や西荻窪などに住んでいたことがあるという。最近の自分の行動範囲と近くてドキドキする。
中也は文士同士の付き合いの中でたくさん悪態をつき、絡んだ。故郷からの仕送りに頼りっきりで、そのくせ就職にはまったくやる気なく、履歴書に「詩的生活」とだけ書いたりした。
そして、二人の子供を早くに亡くし、中也は神経衰弱になって、死んだ。
自分が30歳になるまで、誕生日を迎えるたび、中也があれした年齢、中也がこれした年齢と考えていた。31歳になってから考えなくなった。それからもう、久しい。
「俺の蔵書は売らぬこと」。中也が残した言葉の一つだ。詩句ではないこの言葉をなぜかたまに思い出す。
閑話休題。
話題になっていたnoteを読んだ。
河瀬直美監督ドキュメント映画『東京2020オリンピックSIDE:B』には、なぜ「最も重要な人物」が1秒も映らないのかという話|CDBと七紙草子|note
映画も観てないし、この後の有料部分も読んでないし、この論考への賛否はないことを断りつつ、以下の文が気になった。
よくカットの激しい映画を「ミュージック・ビデオのようだ」とけなす形容があるが、『SIDE:B』で採用されているのはまさに政治家の政治的発言の脱政治化であり、すべての政治意見の散文詩化である。もしあなたの手元にテレビのリモコンがあったら、すべてのチャンネルを7秒ごとに切り替え続けてみてほしい。ニュース番組もバラエティも映画もすべて等価な、むなしくはかないものに見えてこないだろうか?
「政治家の政治的発言の脱政治化であり、すべての政治意見の散文詩化」。
「散文詩化」とは、なんなのだろう。これは論旨への反発とかではなく、ごくごく単純な疑問としての「散文詩ってなんだろう?」です。
このあともう一度「散文詩」という言葉が出てくる。
河瀬直美監督のこの演出手法は、100人近い人物たちの発言をすべて脱政治化、脱論理化し、言葉ではなく声、意味ではなく情緒に変換してしまう。高層マンションから見下ろすと、渋谷のスクランブル交差点の群衆が豆粒のような風景に見えるように、すべてを散文詩に変え、無重力空間のように相対化してしまう。
脱政治化、脱論理化をイメージさせるものとしての「散文詩」。「むなしくはかないもの」あるいは「言葉でなく声」「意味ではなく情緒」「無重力空間」としての「散文詩」。
散文詩ってなんなのだろう。
書いた人と読む人の間のコモンセンスとして、「散文詩=意味不明なもの」という了解があるのかもしれない。だから、多くの人にとって、違和感なく読める語用なのかもしれない。
私は、冒頭に中原中也がどうのこうのなどと、別にこの話とは関係なく書いたりする程度に、詩が好きで、10代の頃は特に中原中也とロートレアモンが好きだった。
ロートレアモンというのは、服のブランドではなくて、『マルドロールの歌』という、呪われたような言葉が続く詩で、行分けされていないものなので、「散文詩」なのだと思う。
呪われたような言葉というか、読めばわかるのだけれど、もう言葉を尽くして、世界を呪っている、呪詛だ。
もしかしたら以下の一節をご存知かもしれない。
解剖台の上でのミシンと蝙蝠傘の出会いのように美しい
意外な組み合わせが生み出す衝撃、デペイズマンという技法を代表する表現として有名な一冊は『マルドロールの歌』に焼き付けられてある。
こういうのも、人々の間の共通認識としては、「よくわからないもの」なのだろうかな。読んでみてもらったら、もしかしたら「いいな」って、響くかもしれないので、読んでみてほしい。
ロートレアモンと、note内での「散文詩」はつながるのかな。どうなんだろう。
まあ、そんな古い詩よりも、現代詩を、というのであれば、そして日本語の詩をというのであれば、四元康祐の『世界中年会議』はどうだろうか。
あれは散文詩だろう、うん。韻も踏んでないだろうし。
多分地域の図書館に一冊くらいは入ってると思うので、ぜひ借りて読んでみてほしい。少なくとも「脱論理化」みたいなことはちっともなくて、どう感じるかは別として、意味はわかるんじゃないか。
世界中から中年が集まって、中年の人権とかそんなことを考えて、なんとか意見を表明しようとする、そんな切実な詩。ラストの、キャンプファイヤーのシーンは、涙さえ誘う描写であります。
井戸川射子の詩も散文詩、なのか。あれはほんとうに、もうほんとうに、読んでいると、迫るものがあって、胸に涙がつっかえて、キュルキュルする。
小説「ここはとても速い川」も読んだのですが、もう、それはそれは、素晴らしかったです。小説だけど、詩のように読んで、それが心地よくて、頭の中言葉乗っ取られて、気持ちよく、夢の中でもベラベラしゃべってるよ、そんな気分。
……、などと書きつつ、そもそも散文詩がなにかわからない。
Wikipedia読んでもよくわからない。
先程のnoteを読んで、多くの人は「ああ、散文詩化ね」と了解されたわけでしょう。なんだか、なあ……。
もうちょっと、勉強します。
全く別の話。
フジテレビで大喜利の番組がやっていて、女性だけの大会、と銘打っていて、お題がなんとなく女性であることを自明の前提としていたりすることに、ひたすら窮屈さを感じた。
性別ごとにあるあるは違うよね、という前提、共通認識の中、「笑えること」を提示するのは、その文脈上の振る舞いを求められるから、喉がしんどい。
そしてまた別の話。
国立西洋美術館に行った。
久々に、あの常設展の彫刻がある場所へ入ると、すぐにもうずっと前、高校生の頃にそこにきた時のことを思い出して、脳みそにテレビの砂嵐みたいなのが巻き起こる。
自然と人のダイアローグ展はとても良かった。今、たくさん良い展覧会がやってる。毎週末、どこか行こう。
さらに別のお話。
Chilli Beans.というバンドのlemonadeという曲を聴く。
「いやいやいや」と繰り返されるところで、胸が締め付けられる。仕事中にこのフレーズを思い出して、ちょっと泣きそうになる。なんだか、ぐっとくる。「想像上で君とダンスしたい」という歌詞も不思議だ。想像上なら「したい」と願わなくてもいいのに、想像上でさえ願うだけ。そして「いやいやいや」と繰り返す。ややこしい気持ちがぎゅっと詰まっていて、いいと思う。