「ちむどんどん」で、中原中也が取り上げられていて、今年って中原中也の生誕または没後何年みたいな当たり年だっけか? と思うと、まったくそんなことはなかった。
正直(しょうじき)、物語の展開と中也がそんなに華麗にリンクしているわけでもないから、誰かの趣味なのだろうか。謎である。
などと中原中也についてこれ見よがしに書き出したのは、十五の頃から中也を愛してきたと自称しているからなのだが、最近はめっきり読んでなかった。読み返す良い機会になったなんて、結局ちむどんどんに感謝してたりする。お話はまったくおもしろくないけど。
作中「彼女の心は真っ直い!」の一節が朗読されたので、これ「まっすぐい」と読むのは知ってたのですが、初めて声に出してそう読んでるのを聞いて、ちょっと興奮した。
というのも、私が初めてこの詩を読んだ時、ルビが振られていなかったので、何と読むかわからなかった思い出があるのだ。「まっちょくい」なわけはないだろうが、「まっすぐだ」の誤植ってのも気持ち悪い、うーん、わからん。と唸り唸って、通っていた高校に隣接していた大学の図書館へ。全集だかなんだかをパラパラと読んだらルビの振られたものがすぐに出てきた。もちろん答えは「まっすぐい」。私は自分の本に鉛筆で「すぐ」とルビを振った。
その後、中也に関するものの本を読んでいるときに、どこかで知ったのだが、「直い」(すぐい)というのは中也の生まれ育った山口で使われている言葉だそうで、まっすぐ、という意味合いだそうだ。
中也の詩には意図してか、無意識か、ちょこちょこ故郷の言葉遣いが出てくると言われる。
もしかすると高く評価していた宮沢賢治の影響であえてそうした言葉を入れていたのかもしれないし、詩句の音を優先した結果、違和感なくそうした言葉を使ったのかもしれない。そのあたりの評価は研究者に任せるとするが、「まっすぐい」には私はそんな思い出がある。
「ちむどんどん」では、この詩句で描かれる彼女とヒロインを重ね合わせていたのだが、私は青春期らしく、観念的に、あるいは音感的にそれらの詩句を読んでいたので、生身の人間にその言葉を当てはめるなどという発想が微塵もなかったから、驚いた。
中也の詩で描かれる女性は、現実と乖離した神格化されていることが多いと思っていて、現実の女性に当てはまるよね! と言うより、男性のある種の身勝手な空想、妄想で、それゆえに悲しかったり、哀れだったり、人生にはそういうすがる気持ちがあるよね、というような感傷を呼び覚ますものだと思っていた。
だから、ヒロインにそれを重ね合わせるのは、制作者サイドが抱いている女性や朝ドラヒロインという存在に対する、肥大した妄想的なものを感じずにはいられない。
というのは、まあ、わたしの中也解釈なので、そう思わない、ヒロインは「真っ直い」気質なのだから、そのとおりの詩句だ、と素直に受け取られる方がいても差し支えない。
というわけで「ちむどんどん」はどんどんお話が進んでゆく。ある意味目が離せないはちゃめちゃさに毎日釘付けだ。
帰省したので、神戸ファッション美術館で行われていた山下清展へ行った。言わずと知れた貼り絵の芸術家。裸の大将。生誕100周年記念とのこと。
美術史の文脈で語られることは少ないが、日本における美術受容の文脈を考えるにあたっては、この人を欠かすことはできないだろう。
とはいえ、一方でドラマの影響から、実際とは異なる放浪姿が流通してしまった不幸も大きい。そのうえ、あまりの人気ぶりに放浪できなくなったというエピソードがあるとは。
貼り絵の技術は天井知らずに向上し、ヨーロッパ旅行での作品の精緻さは身震いするほど。色鮮やかさ、繊細さ、ハッとするようなモチーフの描き方。どうしてもこれは本物を見るに限る。ぜひご覧いただきたい。来年の今頃にはSOMPO美術館で開催されるとのこと。混雑必至。
兵庫県立美術館の常設展で吉原治良の特集。小品が並んでいるのだが、どれも見応えのあるものばかり。一生愛でてられるなという感じ。
新収蔵作品で柳瀬安里の「線を引く」。安保関連法案反対のデモ中、チョークで地面に線を引く。ただそれだけ。道ゆく人や警察官らに「何をしているのか」と問われれば「線を引いている」と答える。なんちゅうエキサイティングなパフォーマンスか!チョークはやめろと言われて、指で地面をなぞり出す。指で線を引いているだけです、たしかに。最後にオチがあるわけではないが、宗教の勧誘に遭うラストシーンは昨今の宗教談義を踏まえて面白みが倍増。見えない線がある。ここにもそこにもあそこにも。見えない線が見えてない人にはなりたくない。そこに線があること、そして線を越えられることを知っていたい。