Nu blog

いつも考えていること

もの見る力

円山応挙展を観に行った。

www.nezu-muse.or.jp

12/18までならもう一度行こうか、なんて思ってホームページを見たら、しれっと「国宝「雪松図屏風」、重要文化財「雨竹風竹図屏風」、「木賊兎図」、「龍門図」、「鵜飼図」等の展示は終わりました」などと書いている。メインがほとんどなくなっている!

 

円山応挙と聞いても、ピンとくるものはなく、せいぜい国宝「雪松図屏風」くらいで、美術検定では「眼鏡絵」との関連が問われる程度、という印象だった。

広告に惹かれてなんとなく根津美術館に観に行ったら、大変に驚いた。

録画していたNHKの日曜美術館円山応挙な取り上げられていたからそれも観たら、井浦新が「すごい」「細かく描いてますね」といつも通りのコメントをしているのにも笑ったが、やっぱり円山応挙はすごいんやな、と感心した。

今は、思わず買った「もっと知りたい円山応挙」を読んでいる。すぐ熱するタイプ。

www4.nhk.or.jp

もっと知りたい円山応挙―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

もっと知りたい円山応挙―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

 

 

何がすごいのか、と言うと単純に画力がすごい。画力とは上手に描ける力ではなく、「物を見る力」である。

私たちは普段、何気なく物を見ているから、大抵のことを省略して認識しがちだ。あの猫背はAさん、とか、今はオフィスにいるからあのひょろ長いものは蛇ではなくロープだろう、とか、大体を把握して、「概ね」で認識している。

画家だけでなく、小説家、詩人、音楽家、芸術あるいは哲学とはそうした曖昧な認識を許さない。「ちゃんと見る」ことを求める。大体とか概ねとか、そんな言葉の入る余地はない。

特に画家ではモネやセザンヌゴッホといった人たちはそうした意識が徹底しているし、小説家では大西巨人ドストエフスキーカフカなどの目の良さは怖いくらいだ。

その目の良い人の中に、円山応挙も加えられる、ということだ。

 

目を鍛えるには物を見るしかない。

たとえば木。木とはどんなものだったのか、頭に思い浮かべるのではなく、実際に見て、その存在を確かめること。あるいは古今東西、木がどのように描かれていたのかを勉強する。そうした鍛錬の中から、自分の木が現れてくる。

 

円山応挙は勤勉だった。本展でも展示されていた写生帖は、様々な動植物を見た円山応挙の目の力そのものだ。

兎だけでも横から前から、そして口元だけなど、どこまでも丁寧に見る。これが凡人にはできないのだ。

 

そして、たとえば藤花図屏風は琳派の様式を感じさせる作品だが、それは琳派を踏まえた上での円山応挙オリジナルだ。

また、国宝・雪松図屏風には何にも比せない迫力が生み出されているが、しかし、それまでに描かれた狩野派の松なんかがそこには詰まっていて、だから、円山応挙だけの迫力がそこに浮き出てくる。

 

自分の見る現実は、過去ないし同時代の人々の現実認識との共同的幻想から作られているからこそ、過去ないし同時代の人々の現実認識と向き合った上で、自分の見た現実をどう認識するか、磨きあげることで目ができていく。

 

イギリスの画家、ターナーを思い起こす。ターナーもまた、目を鍛えることに生涯を注ぎ、ついには死後現れる印象派やあるいは抽象表現にまで、一人で達してしまった。

円山応挙もまた、知らぬ間に朦朧体のような絵を描いていたと言う。

 

円山応挙の、子孫は当てた手紙には以下のような文言があるそうだ。

誠を尽くすのに遠慮は無用である。家の流儀に真正直に従う必要はない。

自分で考えもせず、ただ言われたとおりやるだけでは甚だつまらない。

できるだけ一筋に、自分で自分の腕で、心を磨いてゆくだけだ。

 

時にしたがいありのままこそ我人共によろし

ただひたすたらもの見る力を鍛えあげた、円山応挙の人生そのもののように思える。

しかし、なぜもの見る力を鍛えたかと言えば、それは求道者だからでなく、人を楽しませるエンターテイナーとしての性質なのだろうと推察する。