映画「聖の青春」を観た。
面白かったけれど、興奮しながら他人に勧めるほどでもない。シン・ゴジラはその点、興奮して、口角泡を飛ばし*1勧めたくなったから、振り返っても恐ろしい。
シン・ゴジラは置いといて、聖の青春。
村山聖という棋士がいた。その実話を基にした小説を映画化した作品。不勉強ながら原作は読んでないし、村山聖さんの存在もこれで初めて知った。
村山聖を松山ケンイチ、ライバルである羽生善治を東出昌大が演じた。松山ケンイチは体型が変わるほど体重を増やし、東出昌大もまた羽生善治が憑依したのかというほど役柄に没入していて、二人の醸す緊張感は素晴らしかった。
映画は村山聖の棋士人生最後の四年を描く。怪童と呼ばれ、名人を目指しひたすらに階段を駆け上がっていくが、その先には羽生善治がいた。羽生善治はすでにその時、前人未到の七冠を達成していた。
村山聖のやや一方的な羽生善治へとライバル心と(しかし村山聖にとって羽生善治は手が届かない相手ではなかった)、二人の人生をかけた対局を静謐に描きだす。
あらすじや、現実にどのような人生、対局が繰り広げられたかは、映画とウィキペディアに譲るとする。
途中、二人で居酒屋に行くシーンがある。この映画の最も重要な場面だ。
話しは少し逸れるが、この時の村山聖の照れ屋な誘い方が愛らしい。差しで飲みたいが、相手から誘ってくれないだろうことは分かり切っていて、じゃあ自分から誘わないといけないが、断られたら困るなあ、でも今誘わなきゃ一生誘えない、えいや!と思い切ったはいいけれど、にやにやしてしまう。身に覚えがありすぎて、この映画で一番好きなところだ。羽生善治の誘われ馴れている対応もいい。
さて、話は戻って、村山聖と羽生善治、二人の趣味はとことん合わない。かたや村山聖は少女漫画と麻雀が趣味。かたや羽生善治はチェスが趣味。
しかし、趣味の話など二人には不要なのである。「負けたくない」、このこと以外に話すこともないのだ。そして、プロポーズのような「村山さんとなら、行けるかもしれない。一緒に行きましょう」というセリフ。神様に導かれたままに、将棋だけで繋がれた二人の、ラブストーリー。
このラブストーリーは、最後の対局に収斂する。向かい合って二人とも体をゆすりながら、一分将棋を指し合う姿を、私たちはそれが最後の対局だと知っているから、悲しくてやりきれない。そして、投げるように打たれた角の行方…。
序盤の対局の演出が素晴らしかった。棋士の一手一手に合わせ、私たちの何気ない生活をスローで映す。その一手一手は、ただの一手ではない、永遠を凝縮した時間の端っこなのだ。
村山聖はなぜ体を大事にしなかったのだろう、とふと思うが、麻雀のシーンやみんなで酒を酌み交わす情景に、ハッとさせられた。
青春の頃、大切なことは命よりも、目の前の友人と楽しく過ごすことだった。「酔うて砂上に伏すとも君笑うことなかれ」だ。
それを暇つぶしだとか、現実逃避だとか、そんなことは誰にも言わせない。友人と過ごす一瞬が人生の全てだった。酒を飲み、別れた後に不慮の事故で死んでも構わない、崖の淵に片足で立っているような気持ちを持っていることが青春だとぼくは思う。
青春の終わりはある日やってくる。大人になるからか本当に死んでしまうからか、それは神のみぞ知る。
抒情的な映画だった。伝記的な、情報量の多い映画にもできただろうが、あえて抒情に整えたのだろう。
竹下景子の悲しみやリリー・フランキー、安田顕、柄本時生らの優しさが身に染みる。
ふとリュック・ベッソンの「グラン・ブルー」を思い起こしたのは、ぼくの映画の知識が浅いからだろうか。
*1:誤用