BSでやっていた伊藤野枝のドラマ「風よあらしよ!」を観る。稲垣吾郎演じる辻潤のダメっぷり、身につまされる。というのも、なんとも自分に重なるところが多い感じがある。新しい物好きだから、こんな扉もあるよ、あんな扉もあるよと覗き回ってみるものの、いざ自分がどう生きるのかを考えると、やけに退廃的、虚無的、無気力的、無感動的、つまるところ怠惰な本性が露わになってしまう。だから、当事者的に直向きに走る人を見ると「わー、がんばってるなあ」「そんなに変わるもんかねえ」「どうにもならないんじゃないの」みたいな冷笑的なことになってしまって、この冷笑的な態度に自分は「かしこさ」を感じているわけだが、よくよく考えればただの体制的、従順的、長い物には巻かれろ的スタンスでしかなく、結局はザ・下駄履かされた男、という具合で超ダサい。というようなことを、そういうダサい状態に陥って初めて気がついたりするわけで、やり直したくても一度ダサかった自分はもう取り消せないから、「尺八吹いて放浪したい」「子供の面倒は見ない」「俺は俺の勝手、君は君の勝手」というようなゴールラインを動かしまくって、負けないように生きる羽目になる。というようなことを考えて、ガビーンとしながら見た。吉高由里子演じる伊藤野枝は、そのパワフルでない感じがとてもしっくりきて、困難に対してパワフルに薙ぎ倒すタイプではなく、倒されながら、這いつくばりながらも、怒りだけを原動力に進んでいく様を見れたように思う。にしても最終話。バタバタと殺されてしまって、残念。アナキズムとは助け合い。原作読んでみよう。
ちなみに、図書館で玉川信明『ダダイスト辻潤』(論創社、1984)を見つけて、ちょっと読んでみる。「辻潤といえば直ちに連想されるのは尺八である」などの強烈な言葉が面白い。ただ、野枝の評価は散々で」「無知な衝動家」とか「自分の独力で行なうというのではなく、かならず誰かの援助を求め、すがりつき泣き込む」とか「野枝の、無知と不器用と観念性によってもたらされる一切の負担を、母親と胃毛が受け持っていた。それでいて野枝の方では、頭の中でモロに姑、小姑とぶつかりあっているのである。彼女らは「私の自由を束縛し、成長を妨げようとする」と。」というような記載もある。「辻にしてみれば、どんな問題も自分自身が始末をつけるべき」。この本だけを読んでいると頷いてしまうが、その実、結局のところ、こうした意見のバックボーンに「どこまで女を自由にすれば気が済むんだ」「何もできないくせに」という高みの見物的なものがあることは明らかで、そうした態度がつまり冷笑的な、「変えられないものには関わらない」「自分が良ければそれでよい」という考えに繋がる。この本が書かれた80年代には、わかりようのないことだったのだろうが…。
相撲。
10日目と11日目、調子の良かった北勝富士は高安と玉鷲を当てられ、両力士のめっちゃ強い相撲の前にあえなく敗れ去った。二人とも下半身が全くブレず、腕力(かいなぢから)が強かった。
千秋楽、優勝争いは玉鷲と高安に絞られ、素晴らしいことに、本割で二人の直接対決。高安からすれば、二連勝が求められる厳しい状態。今場所の玉鷲の強い相撲を2連続破れるとは思えなかったが、本割であそこまで完敗とは。高安、賜盃が遠い……。
12日目の貴景勝の変化と13日目の若隆景の変化が話題に。変化はいいのか悪いのか議論はもう何十回とこすられてきた「面白くない議論」の代表で、すでに結論は「変化を食らう方が悪い」と出ている。おつかれさまです。
石がたくさん、というだけでワクワクするが、なんと、展示室中程には石の敷き詰められた部屋がある。石を踏むと、少し石が動いて、がこんがこんと音が鳴る。わあ、と思う。まるで大昔からそうであるように、コンクリートの上を歩くことが日常の当たり前であるが、石や土や砂が元々の土地の姿であろう。だから、この展示室は人工的に作られた元々の土地の姿である。踏みしめる。単に石ががこんがこんと動くのが楽しい。歩くことの本来の感じがする。
そして絵画作品も魅入ってしまう。空間が創出され、落ち着いた気持ちになる。こんなになにも描かれていないのに、絵が空間を規定する。とても愉快な経験だった。おすすめです。
魔法のリノベ、羽子と石男、初恋の悪魔がとてもよかった。終わってしまって残念。
ちむどんどんがやっと終わった。嬉しい。舞い上がれ!は古本屋と詩人が出てくるらしい。誰か監修するのだろうか。楽しみだ。