Nu blog

いつも考えていること

相撲の立合い

自分1人だけ怒ってるのかと思って、うじうじしていたら、北の富士さんが千秋楽に言ってくれたので、「もっと言ってくれ!」と画面に向かって言っちゃった。

相撲の立合いについてである。

びっくりすることにどうやらあまり共感されていない感想らしい。

相撲友達にもそんな目くじら立てんなよ的な反応しかもらわない。

しかし、年々立合いは酷くなるばかりで、相撲を観る気そのものが失せるくらいだ。

上位陣の駆け引きもし烈を極めており、待ったが出る度、ため息を点いてしまうが、それ以上に幕内下位や十両、たぶんそれ以下での立合いがもう酷くて仕方がない。見られたものじゃない。

仕切りに時間制限があるのは、ラジオやテレビの影響であることはご存知かと思う。

本来であれば、お互いの呼吸が合うまで仕切り直し、呼吸が合えば立合う。

つまり、呼吸が合うことが、この競技の開始方法なわけで、それまでは始まりようがない。

上述の理由から時間制限が設けられたものの、だとしてもこの競技は息が合うことで開始すべきものなのであって、あえて「よーいどん」で始めないように設計しているわけだ(相撲を観ない人は、行司さんが「はっけよい!」と言って開始するイメージを持っていたりするけど)。

呼吸が合うとは、なんぞや。自然と呼吸が合うことなんてのは、まああまりないことだろう。結句、呼吸が合うとは呼吸を合わせることとなる。

相手の呼吸と自分の呼吸を合わせること、これは大変な観察眼を必要とするものだ。

一朝一夕にできる芸当ではない。

中島らもが書いたゴンチチのエピソードに、レコーディング直前にチチ松村が「あれがない」と言ってすぐにゴンザレス三上が「はい」とピックを渡した、というものがあるが、そういうものである。長年の付き合いと相手を思いやる気持ち、それらがすべて合わさってようやく呼吸は合ってくる。

何が言いたいかと言えば、何度も塩を撒き、仕切り直すのは時間制限を待つためではない。呼吸を合わせるための必要最低限の時間なのである。その間、自分がどう立合うかとか、どうやってやろうとか、そういう「自分事」を考えてばかりいてはだめなのだ。相手が何を考えているのか、どんな立合いを望んでいるのか、それを観察するのが仕切り直す時間でなければならない。

であればこそ、時間制限がきたら、もう滅私。相手のことを考え、一息に立合わなければ、ズレは必至。お尻をフリフリしたり、足場を固めたり、腕をぐるぐる回したり、そんな自分のコンディションを整えている場合ではない。相手と同じ呼吸で、早さで、仕切り線の前に立ち、両手を下ろし、当たる。これだけ。これ以外にすることなんてない!

にもかかわらず、にもかかわらず、昨今の力士は大学出身力士によるアマチュア相撲からの影響と思われるのだが、制限時間いっぱいになってからごちゃごちゃ動作を挟み込み、相手のことなどこれっぽちも考えず、自分事ばかり。特に僕が怒りを覚えたのは腰を下ろしてから鼻をこする力士がいたこと。いや、もう訳分からん。鼻をこする動作は相手と呼吸を合わせることに必要か?ぼくの見る限り、その力士の立合いは待ったの回数が多かった。当たり前である。腰を下ろしてから鼻をこすられたら、いったいいつ手をつけばいいのか分からんではないか。あくまでも「ルーティン」だと主張するファンもいらっしゃるだろうが、そこにルーティンはいらないのである。むしろルーティンはすでに決まっており、独自の所作は要らないように設計しているのに!それでこその呼吸を合わした立合いなのに!

もうむしろ「よーいどん」で立合ってほしい!

 

ちなみにラグビーではスクラムに同じようなことが起こる。クラウチ、ホールド、セットの掛け声でスクラムを組むのだが、解説者の方がこれを「協力しながら、競い合う」と表現されていた。なんという素敵な表現だろうか。良いスクラムとは相手を尊重しながら、自分たちの強みを最大限発揮することなのである。

もちろん、掛け声があってもうまくいかないという点はあるが、これはまあ8人対8人という複雑さがあるからで、相撲のように1対1であれば、掛け声は有用な施策だろう。

 

白鵬の14回目の全勝優勝、41回目の優勝、横綱800勝、幕内1000勝。ただ一人、孤独に記録は伸びていく。記録だけでなく一つ一つの相撲にも相撲の魅力が込められている。たとえば、御嶽海との一番!

こんな偉大な人を見られたこと、そしてこんな偉大な横綱のいる時代に、鶴竜稀勢の里、高安、豪栄道栃ノ心といった実力者がそろっていること。毎日ワクワクさせられる。と同時に、立合いの残念さに落胆もする。あと、そんな豪華大関陣の中に照ノ富士がいないことに強い強い寂しさを覚える。

鶴竜の10連勝も立派だった。終盤5連敗、つまり大関横綱の誰にも勝てていないのは残念だけど、悪い相撲はなかった。

稀勢の里は危ない相撲、ひやひやさせられる内容も多かったが、連敗しなかったことはすごいことだ。また、栃ノ心に勝った快心の相撲も素晴らしかった。しかし、来場所も10勝で留まるようではちょっと悲しい。

御嶽海の大関は一旦ストップも来場所、好成績を挙げられればというところ。踏ん張ってほしい。先場所活躍した朝乃山や豊山の失速も、上位陣の好調故。必要な足踏みというのもあるのだと思います。しっかし、三賞がいないってのも、どうもしっくりきません。嘉風でええやん。

十両は団子の成績。もうね、この十両の成績団子状態、なんなんですか。実力が拮抗しているなどと言えば聞こえはいいが、どちらかと言うと、レベルが下がっているだけのように思う。ドカベン岩鬼が「お前らなんざじゃんけんで決めろ」みたいなことを言っていたのを思い出す。そこまで言うのは失礼ですね。すいません。しかし、幕下と十両の壁がなくなり、幕内と十両の壁が分厚くなってしまっているように感じる。これも立合いの改善でずいぶん変わると思うんです。

今場所は役者で見ても、内容で見ても、とてもいい15日間だったはずなのに、前々から懸念の立合い問題がより深まって、苛立ってばかりでした。手なんかつかなくていいから、呼吸を合わせてくれ。でなければ僕は「よーいどん」がいいくらいだ。呼吸を合わせられないなら、無理矢理合わせるより他ないでしょう?

 

相撲好きなのに相撲に対して怒るんだね、観なきゃいいのに、とか思うんでしょうけど、そういうの止めてください。僕なりの相撲の愛し方なんです……。