吉祥寺パルコでやっていたZINEフェスティバルに行く。前日の寒さから一転、暑い。いろいろな人の話を聞く。面白い。日記本を買う*1。そして、Good Movie Clubという映画好きな人たちのラジオを知る*2。家に帰って、『花束みたいな恋をした』について話す回を聞く。「あの人たちは人に未練がある」「語りの背景にあなたが見える」「オタクは語る」「だから分かり合えないんだぞ」「もっとおおらかに生きたいと言う大反省会」「カルチャーからオルタナティブを摂取しろよ」「もうちょっと自分の人生に集中しよ」といったパンチラインがたくさんあって、何度も笑った。映画について話すのが主たる目的なのだけれど、30歳前後の人々の生活や考えていること感じていることが裂け目のように見え隠れするのが面白い。それは窃視的な楽しみではなくて、同じように悩みつつも映画を見たりなんやしたりしている人がいることで得られる「癒し」みたいなもののような気がする。語ること、それを聞くことによる癒しみたいなものがあるのではないか。ラジオが今も一定有効で需要のあるメディアなのは、語り聞くその一方向性に癒しがあるからでは、なんてことを考える。まあ、とにかく面白かったです。日記も面白い。こちらもまた同世代の人がむにゃむにゃ、考え事をしているわけで、それを知る記録になっている。そしてコロナ禍で起きた出来事も思い出させてくれる。多分この日記は自分で読み返すのも楽しいんだろうなと思う。私も私の書いたものを読み返して、楽しい時がある。それは書いた本人にしかわからない当時の状況、考えたこと、消したことがあるからだ。料理は、作った本人が一番美味しいと思うもの、だと思う。
さて時前後して、岡林風穂を知る。奔放なように見えて、ものすごく落ち着いて、作りたいものにアプローチしているように思う。どうしても柴田聡子の初期作を引き合いに出したくなるが、一旦やめておく。ライブに行ってみたい。
そしていきなり全く関係ない話だが、「推し」についての民間研究所のメディア調査結果を見た。『推し、燃ゆ』も読んでるし、推しには詳しいぞ!なんて思っていたのだが、思ってたのと違った。なんというか、「推し」というのは要は「最近の好きなもの、人、こと」を指し示す概念であって、割と簡単に変わるものらしい。『推し、燃ゆ』で描かれていた姿は、生活、人生全てを賭けて推しに費す姿だったし、自分としても推しとは何かそういう没入、没頭、賭け金は自分、というような過激な姿を想像してたので、驚いた。同義語は「ライフワーク」だと思ってたので、「今好きなもの」程度をことさらに「推し」などと言わないでほしい気もする。「マイブーム」でいいじゃないか。
さらに話変わってカービィの最新作をやる。レジに行列ができてて驚いたが、何と私以外は皆さんPS5を購入されていた。一安心。ヨッシーにせよ、カービィにせよ、私はそういうナヨナヨっとしたゲームしかやれないのだ、なんか怖くて。そして残念なことに、本当にクソ下手なので、ラスボスが倒せない。ヨッシーも倒せないまま終わった。残念である。たぶんエンディングを見ることはない。カービィの良かった点は、ワドルディたちの作る街で、武器屋と同時に映画館が初めに作られること。「娯楽は重要なので」という説明がサラリと入る。コロナ禍を経た、覚悟のある言葉だと思った。
そして最後に、大相撲三月場所の優勝は若隆景。13日間は高安が優勝する雰囲気だったのだが、14日目にがらりと風向きが変わった。若隆景が優勝する人の相撲を取り、反対に高安は優勝しない人の相撲になった。それでも千秋楽、どうなることかと思いきや、本割は両者負けた。これはもう阿炎と正代の相撲が素晴らしかった。二人とも苦しんだ場所だっただけに、最後の最後にこうした相撲をとって、来場所が楽しみになった。正代直也の直は立ち直るの直、である。素敵な言葉をありがとうございました。そして、優勝決定戦は三役格行司、木村容堂が合わせた。静寂。そして閃光。土俵際、若隆景が追い詰められたその刹那、右膝は誰かに支えられたかのように、しなり、俵を伝い、左脚もまた円を沿うように土俵の内側をするりとしなやかに回った。それはもう、目に見えない何者かによる導きだったとしか思えない。神がかった土俵際。高安の体が落ちていった。土俵下で、その場所を見つめる姿に、私は何の言葉も出せない。賜杯に指が掛かって、消えていった。そんな絶望を、私なんぞでは想像することすらできない。しかし高安は今一番強い力士である。高安に勝つには、何かギリギリのものがないといけない。そのギリギリを攻め成功した人だけが勝った。だから高安は今年、どこかで優勝すると思う。いや、してほしい。千龝万歳。相撲のない、偶数月が始まる。