11月。区による男女共同参画セミナーに参加し、社会学者で男性学を専門とされている田中俊之先生の講演会を聞いた。
「らしさ」をテーマにした講演会だった。
周囲を見渡した限り、同年齢(30代)や年下と思われる人はほとんど見当たらなかった。zoomでご覧になった方もいるそうだから、もしかすると画面の向こうには若い人がたくさんいたかもしれない。
時同じくして、男らしさがネットでも話題に。
たとえば国際男性デーに合わせた以下の記事。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f77e1f5a9006fa419af6106daddd30360ba3f1ff
あるいはブログでの考察。
Twitterのまとめ。
https://togetter.com/li/1624162
など、など。
加えて男らしさに関する本もよく上梓されていて、一番最近ではこれとか。
以下は講演会や記事、本から感じたこと。講演会や記事、本の内容ではないので悪しからず。
「男らしさ」から降りること。
それは何か人格改造や矯正のような、鋳型にはめられるようなニュアンスを受けるのだが、そうではない。
単に「変なことはやめましょう」という、ただそれだけなのだ。
変なこと、つまり、体に悪いことやしんどいこと、人を虐げるようなこと。そんな変なことをあえてやらず、楽な方、気軽な方、リラックスできる方、みんなで支え合う方を選ぼう、ということ。
しかし、男性は骨身に染みて知っているのだが、体制順応こそ「楽なこと」でもある。男性の多くが、現状に不満なく生きられているのだから、この実感は根深い。
もちろん、男性の中でも、当初から違和感を抱き、あるいは病気や育児介護などの経験を経て「標準」から外れる怖さを知ったり、少なくない人が、あるいは長い人生の場面場面において、楽ではないことに気づく瞬間はある。
あるけれど、概ね楽、なのだ。
とすれば、「降りる」ことは単に既得権を手放すだけの行為となる。
たとえ人生のある局面で男性のしんどさに見舞われたとしても、本人も周囲もまあ、それまでのツケが回ったとしか形容できなかったりする。
そして今現在も「標準」であり、なんの厄介もない人にとっては、これまでの罪を認め、贖罪とともに歩むにはあまりにも困難、かつメリット皆無なのである。
ただ、そんなに小難しく考える必要はないのかもしれない。
先に書いた通り、楽な方を選べば良いのだ。
責任感や義務感を理由に仕事を背負いすぎない、しんどいときはしんどいと言う、困ってる人を見たら助ける(余裕があるなら!)、人を馬鹿にしない、人と自分を比べない。
言葉にしてみればなんてことないそれを意識するだけ。ただ、それだけでいい。そこにメリットもデメリットもあるだろうか。なんにもない。人としての肯定感を高められる点で、生きてて最も基礎的な状態を作る、というメリットを得られるとも言える。
贖罪はその行為の後についてくる。贖罪しなけりゃ、正しいことができないなんてことは、この中で罪を犯したことのないものだけが言えることだ(はい、解散解散)。
みんなで助け合う、困ったら頼る。これらはアナキズムの精神でもある。国家があるからアナキズムは永遠の理想などと考えるのではなく、一人一人の生きる日常にアナキズムを。それは暴れたり、破壊したり、嘆いたり、喚いたりすることではなく、互いに思いやる、それだけのこと。むろん冷たい「自助」でもない。「互いに」思いをやりあうこと。
こういう言葉を男性が男性に投げかけることで、女性やLGBTQの被害を有耶無耶にしようとしてるように思われるかもしれない。しかし、これ以上加害者を増やさないための言葉は、どうしたって必要だろうと思う。
すべての人が、いきいきと生きるために。