Nu blog

いつも考えていること

自分の中の偏見に気付く

自分の心の中にある偏見に気がつく瞬間の怖さ。

 

大晦日、あと何時間かで2015年も終わる時間帯、紅白までまだあと少しある夕方、他に観るものもなくEテレをつけたらば、その番組がやっていた。

教育番組を対象とした「日本賞」というのがあるらしく、そのグランプリを受賞した「キミの心の“ブラック・ピーター”」である。

www.nhk.or.jp

黒塗りのメイク、少しおどけた姿でサンタクロースとともに歩くブラック・ピーター。オランダのクリスマスには欠かせない伝統的なキャラクターが、社会を二分する議論となっている。植民地時代から続く人種差別の名残なのか。それとも伝統行事の中の悪意のない慣習なのか。この番組は、オランダ人の心の中に潜んでいる植民地時代からの差別意識をあぶり出そうという試みだ。近くにいる人たちに容赦なくインタビューのマイクを向け、公園では自転車の鍵を壊す黒人に対する人々の振る舞いを撮影する。そして、オランダの人たち全てに問いかける。クリスマスの行列の中にいるブラック・ピーター。それはあなたの心の中にある隠された差別意識ではないのですか?

白人のサンタクロースの従者としておどけながら歩く、顔を真っ黒に塗ったブラック・ピーター。

これは黒人差別ではないか?

いやいやいや、昔っからの伝統行事だ、そんな目くじら立てて怒るなんて、ちょっと過敏じゃないか。

それで裁判にも発展する。

なんというかこのあたり、日本における夫婦別姓の議論に似ていなくもない。

さて、裁判では裁判官が女性の白人4人である。

なぜ黒人の人種差別を裁くのが白人4人なのか。というのもまるでこの間の夫婦別姓がテーマとなった裁判にそっくりである。

しかししかし一審では「差別的であり、禁止すべき」という判決が出た!

ここにはびっくりした。白人4人が裁くからといって偏見を持っていたのはこちら側だったか、と思ったシーンである。

しかし、最高裁ではひっくり返ってしまう。残念。

 

番組の中盤に、もしもこの番組の感想文を書けという課題が出たならば9割方の人が書くであろう実験が行われる。

公園で、白人の男性と黒人の男性が自転車の鍵を壊していると、それぞれどうなるか、という実験である。

白人の男性が公園で自転車の鍵を壊していても誰も何も言わない。むしろ「どうした。鍵が壊れたのか。もっとちゃんとしたペンチがないと外せなさそうだな」みたいなことを声をかけてくる人がいるくらいである。

「どう思いましたか」と通り過ぎる人に聞いてみても「別に何も思わなかったけど」という返事。自転車には子どもが乗る椅子、チャイルドシートがついている。「子どもを乗せていたんだろうと思いました」的なことを言うだけである。

何の御咎めも、そこにはないのだ。

一方、黒人の男性が公園で自転車の鍵を壊しているとどうなるか。

結論から書けば、「通報される」のである。

衝撃的過ぎた。

映し方の問題とか、演出の効果とか、そんなちゃちなものではない。

白人の男性と着ている服も同じ、背丈も同じくらい。長袖、長ズボンで、首筋からタトゥーが見えているとか、そういうようなことはない。

肌の色だけが違っている男性が、同じことをした。

鍵を壊している風景になんらの変わりはないのである。

しかし、通り過ぎる人々が「それ、あなたの自転車?」「何をしているの?」と聞くのだ。「どうしてそんなことを聞くんですか?」と穏やかな口調で黒人男性が聞くと「通報するわ」と速攻で携帯電話を取り出されたのである。

あるいはおもむろに写真を撮られる。「どうして写真を撮ったのですか?」と聞くと「彼のやっていることを証拠に残すため」と言う。

「どうして疑いの声をかけたのか」と聞くと「子ども用の椅子がついている自転車の鍵を男が壊しているんだから、誰だろうと怪しいと思うさ」という返答まである。あたかも黒人でなくても声をかけたよ、というような言い分であるが、いやいやいや! 白人だったら誰も何も言わなかったですよ!

じろじろと見て通り過ぎた人は「声をかけようかと思ったけど、暴力を振るわれたら怖い怖くて声をかけられなかった」というようなことを言う人もいた。

警察らしきパトカーが通り過ぎては「なぜ声をかけられたか分かるな」と、まるで犯罪現場を取り押さえたかのようなことさえ言う始末。通り過ぎただけの人がその後通報したのかもしれない。

もう、本当に、マジなんである。それが現実なのである。

「白人の特権」と呼ばれるものが、白人の目には見えないまま、明らかに存在しているのである。

 

ディレクターも白人である。ディレクターのパートナーは非白人的な容姿で、これまで差別を受けて来たと語る。

「でも私はあなたが差別されているところを見たことがない」と言うとパートナーは少し言葉を詰まらせる。

「それはほら、君のおかげだよ。君は白人だから」と言いにくそうに言う。

ディレクターの父はかつて市民運動に参加し反原発運動などにもかかわったことがあるような割と人権意識の強い人だけれど、「白人は恵まれていると思う?」と聞くと「そんなことない」と言う。しつこく聞いていると「なら、どうしろって言うんだ」「俺にはどうにもできないことだ」と怒っちゃう。

ディレクターの弟か息子か、若い白人男性がその場にいて、「黒人になりたいかと言われたらそれは嫌だ」「なぜなら、黒人は損している状態にあるのは明らかだから」「自分が優れていると思ったことはないけど、小学生の頃は半分いた黒人が大学ではほとんとみかけなくなった」というようなことを言う。

すると父は「じゃあ僕の仕事をどうぞって譲るのか」みたいに怒り気味に言う。

実は黒人と白人の間に格差があることを知っているのに、まるでそんなものなかったかのように、利権を享受して放すなと言うその父の態度は、意識しないうちにまさに差別主義者のそれなのであった。

日本が移民を受け入れない理由のそれのよう。あるいは女性の活用を言いながら女性の雇用に積極的でない日本社会と同じ構図のよう。とぼくは思った

 

一方でスポーツなんかだと肌の色は関係ないと言うことになっている。

特に成功した選手は「オランダ人」として大々的に報道される。

しかし、犯罪者がオランダ国籍だったとしても、「西インド諸島出身」「モロッコ出身」と書くダブルススタンダードがマスコミの中にもある。

ディレクターは自分の会社の中を見渡してみると、多様性を標榜するにもかかわらず、なぜだろう、黒人の姿はほとんどない。

マスコミのパーティに出席してみる。出席者の一人が「この会社には実に様々な人がいることが分かるね」とご満悦。「でも、黒人の姿がひとつも見えませんけど」と言うとその場にいた一同は沈黙。「悪いけど、あなたの質問に答えている時間がないの」と言って会場の中に戻って行った。

 

無意識のうちにある偏見を測定するテストが開発されて、誰がやってみても大抵「黒人より白人を評価する傾向にある」というような結果になる。

黒人であれ白人であれ、それまでの人生の積み重ねのうちでそういう無意識―「白人の方が優秀?」―が植え付けられてしまっているのだ。

しかし、見た目で判断しないということは、目をつむりながら人と接するということである(別の場面で「電話ではオランダ人と思われるんだけど、直接会うとがっかりされたり、驚かれたりすることがある」と言う黒人女性がいた。これなんかはまさに目をつむっているうちは差別意識がない、ということのある種のパターンなのかもしれない)。

それは、不可能だ。

容姿が一つの判断材料であることを否定することは誰にもできない。

だからそこに偏見があることをまず認めることが大事だ。

お題目を唱えるように「自分は差別意識がない」「偏見を排除して判断できる自信がある」と言い張ることこそが、最も無知で最も危険な態度なのである。

 

日本は、黒人や、あるいは黒人でなくとも目の色が青いとか金髪であるとか、つまり「非・日本人」に対し、オランダよりももっともっとひどい排外的な傾向を秘めた国だろうと思う。

日々の暮らしの中で(オランダの白人が自分の周囲には白人しかいないと思うことと同様に)、ぼくたちは日本には日本人しかいないように思っているから、たとえば街中で「非・日本人」を見かけた時の目線には、鋭いものが宿っている、と白状せざるを得ない。 

それ以外にも、ぼく自身、気付けていない差別があることだろう。

たとえば、老人に対する差別。ぼくはこの事実を認めたくない気持ちが強いが、老人を軽視する気持ちが心の中にあることを素直に認めたいと思う。

また、障碍者に対する差別。これもまた自分の中にある偏見の一つだとぼくは強く意識している。

外見を離れれば、性別による差別(これについては何度となく書いていることだけれど、女性であるというだけで正しく評価されないことの多さ。あるいは男性であると言うだけで過大な期待をされること)、年齢による差別(老人だけでなく、たとえば若いと言うだけで実績がないと見なされることもまた)、学歴による差別(中卒、高卒、大卒、どこの大学か、とか)、職種による差別(職に貴賤なし、と心のうちに問いかけてみる)、居住地域による差別(部落に対する偏見のみでなく、その地域にある細かな偏見があることをぼくらは実は知っている)、といったものがぼくにぱっと思いつく偏見の種類である。

気づかぬうちに、子どもの頃からの、日々の生活の中からの刷り込み、思い込み、様々な要素から人間には「偏り」がある。ある、ということを知っておかなくちゃならないし、あると知っただけで済ませていては何の意味もない。気をつけなくちゃならない。

そうした自分自身の偏見に気付けずに、未成熟さを指摘され、「俺を差別主義者だと言うのか!」とあたかも被害者のように怒るようでは、見当外れも甚だしい、ということである。

気付いて、そこから始めるしかない。

それが生きる責任、ということなのだろうと思うと、生きることはとてもしんどいことである。