Nu blog

いつも考えていること

あちらこちらに飛んでいく

なぜぼくはこんなにも長々と書くのか。

ブログやSNSといったインターネット上における情報の伝播においては、簡潔に事実をまとめ、単一の論点を提示し、読み手に示唆を与えることが最も効率的であろうことは明らかだと思う。

そうした記事が拡散し、話題として流通する様は見事で、現代の情報伝達速度に感心する。

 

一方、紙媒体がそうしたスピードに対応できるはずもなく、改めて総合性、公共性といった自身の特性を活かす取組を行わなければならないにもかかわらず、さほどの変化を見せず、ただ手をこまねいて、そのくせ権威を振りかざしながら衰退しようとしていることには滑稽さを感じる。
 
たとえば新聞なんかが自身の存在の意義を主張して、この度の軽減税率の議論に際して、なりふり構わず8%据え置きを懇願するようなことは、権威を振りかざしそれを通せたとはいえ、権威を失墜させたと言うより他ない。
まったくお笑い草の出来事であった。
そもそも軽減税率というのは、「8%を10%にしません」などという引き上げを見合わすための消極的なものではなくて、食品には消費税をかけない代わりに贅沢品には思い切って15%とか20%とか、そういった税金をかけますよ、という議論のはずである。
それをば新聞はとにかく、ただひたすらに自身の商品としての購買意欲を削がないために8%を守ろうと政権にすり寄っているのだからばかばかしい。
 
現代は、消費者のサラリーの奪い合いが激化していると思う。
月額イクラのサービスが蔓延し、たとえば月々20万円のサラリーに対し、家賃が引かれ、携帯代が引かれ、インターネット代が引かれ、携帯電話のアプリも「月々いくら払え」というビジネスモデルのものが多いし、huluやApple Music、Google Play Musicといった音楽、動画、各種サービスも月額いくら、という支払い方なのである。Amazonニコニコ動画、現代のサービスは常に月々いくらか納めなければ快適には使えない仕組みになっている。
そんな中で誰が新聞に月々4000円も払うだろうか。もっと便利で楽しいものが、月々980円とか、780円とかで使えるというのに。
余程酔狂な連中である。ちなみにぼくはその酔狂な連中の一人である。
8%だろうが10%だろうが、もはや新聞を買うような数少ない人々にとっては変わりがない。それは趣味なのであるから。
それよりも消費税の本格的な議論をしてほしかった。そのために月々4000円も払っていると言うのに、メディアがその役割をしないのなら、むしろ解約を考えなければならないくらいである。
池上彰は昨年8月に朝日新聞紙上で朝日新聞批判を行って連載中止になりかけたが、それから復帰。
ますます新聞を批判しているのだが、新聞好きによる新聞批判というのは本当に楽しいものがある。
 新聞協会は、軽減税率に関する与党合意を評価しています。これは新聞に軽減税率を適用することに対する評価でしょうが、これでは、軽減税率全般に関する批判的報道はしにくくなるのではないでしょうか。

 今回の軽減税率は、安倍政権公明党に配慮して決断したと指摘されています。来夏の参院選公明党選挙協力が欲しいからだと。そんな批判を、今後新聞は書けるのでしょうか。
 
権威をかざしているのは新聞だけでない。
他にも例えば出版。
出版物はすべて国立国会図書館に納本することとなっている。
これは出版物というものの文化的価値が高く認められているからこそのことである。
納本された出版物に対し、当然金額(定価の半分と送料)が支払われる。
それだけ、国民の総意として、それらを残すことを国家的にやりましょうとなっているのだ。
しかし、このほど「一冊6万円するギリシャ文字などを無作為に打った本」が納本され、その代金として42冊分136万円がすでに払われていると言う報道があった。
出版の権威を利用したやり口で、とても画期的な、芸術的なやり口だ、とぼくは感嘆した。
出版物であるという権威だけが独り歩きし、今やそれはただの紙に印字されたモノでしかないことを白日の下にさらした事件だとぼくは思う。
伊藤整のチャタレイ事件や赤瀬川源平の千円札裁判といったものをぼくは想起した。
この納本された「出版物」に価値はないと誰が言うのだろうか!
 
そうして権威は地に落ちつつあるのに、誰もそれを引き留めようとはしていないように思える。
新聞は、引っ越しの時に役立つ紙屑であり、書籍もよほど変わり者の収集癖のように扱われている。あるいは偏見を垂れ流す憎しみの倍増装置か。
紙媒体が総合性、公共性に対し、何らの役割も果たせていないと同時に、もはや現代社会においては総合性、公共性は求められていないから衰退しているのかもしれない、とも思う。
 
 
ぼくもこうしてインターネット上で書く以上、簡潔な事実説明、単一的論点の提示、結論としての示唆といった技法を用いれば、それこそがインターネット上で文章を書くことの意味であろうし、そうして本来の意味を果たしたことでさらに読者を増やせるのかもしれない。
しかし、まるでアホのように長々と書くぼくである。
というのも真正アホであるから、簡潔にまとめる能力に欠けているし、単一の論点を提示することもできないし、読後感を残すような何かを示唆することもできないでいるのである。
 
と同時にぼくは、メディアの特性だなんだと言って、社会が、いやぼくの考え方が、全体性を失うことに危機感を抱く。
全体性とは、世界を世界として、自分を自分として、人生を人生として、全体を全体として、受け入れ、直感し、信じ、さらに学ぼうとすること、である。
 
インターネットにおいては、というかこの社会は、いや自分自身の情報の接し方は、ともすればおのおの分断され、独立した項目として隔たれ、全体性を欠いてしまっているようにぼくには感じられる。
たとえばウィキペディアのような空間。独立した項目が立てられ、ぼくらはリンクとリンクを飛んでいく。
もっと自由に考えようとしても、情報の提示のされ方、検索といったハード面に縛られている。将棋やオセロのマス目のように線が引かれ、ここはこう、そこはこう、その駒はそんな風には動けない、と定められているかのようである。
ある項目とある項目の間に、直接の関係はなくとも、人間の想像力はそれを結び付けられるはずなのに、それを阻まれているかのような、断片的情報の群れ。
 
単一的な視線、見方を提示すること、そしてそれを早く伝達する点では秀でている。
でも、そればかりに接していると、ぴったりとハマった情報や考え方だけしか見ることができなくなってしまうように思う。
人は断片的情報をどうしてか結び付けようとしてしまい、結果としていつだって新しいものを生み出してきてしまっていたのだけれど、考え方が形にはまることで、そうした創造的飛躍を上手に機能させられなくなるのではないかと思うのだ。
  
そして、さらに問題なのは、適切な結び付け、創造的な結びつきがなされない時、誰かや何かを悪者に仕立て上げた陰謀論になびいてしまう恐れをはらんでいるのではないか。
 
だからまず、たくさんの情報に接すること、それらを独立させず、有機的に結び付けて機能させるように考えをめぐらすことが大切だと思う。
そのための役割を新聞や出版と言った紙媒体が果たすべきだと思うし、そこにしか活きる道はないと思うけども。 
特に小説が、ぼくにはこれからその役割を担うのではないかと思っている。
小説にこそ、今の時代が抱える問題から時代を超えた問題まですべてを包括的に描くことのできるメディアだとぼくは思っているからだ。
 
 
考えを巡らす練習として、ぼくは長々と書く。
あちらこちらに飛んで、様々な事象を結び付けて、たくさん無駄なことを考える。
それらすべてが自分の考えたことすべて。
伝わりやすさを考慮するのは、ぼくがしなくてもいいことだと思うのだ。
 
ぼくはいつもルート2のことを考える。
二乗して2になる数か…。
少なくとも2じゃあないな。それはもちろん行き過ぎだ。
1。まずは妥当に1だろう。
では次は?
1.1だと1.21。まだまだ。ここは思い切って1.3。おー、1.69とはだいぶ近づいたがまだいけそう。
よし、1.5だとどうだ!あ、2を超えてしまった!
ゴルフのパッティングなら酷い有様だろうな。
さてさて、ということは少数第1位は4のようだ。
第2位はなにかしら…。
 
一つずつ、ぼくは一つずつ見つけていく。
それはとても楽しいことだ。
その過程を全部書いていく。
来年もいろいろ考えようと思う。