『断片的なものの社会学』
道端に落ちている小石を適当に拾い上げ、たまたま拾った石をじっと眺める。
その「とりたてて特徴のない小石」の、色や通夜、表面の模様がくっきりと浮かび上がって世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間。
それだけでなく、世界中のすべての小石が、それぞれに特徴を持った「この小石」であることを想像しようとする。
いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、意味のなさ。
他人との接触は基本的には苦痛だ。しかしたまにそれが、とても心地よいものになることもあり、そのことをほんとうに不思議に思う。
痛みに耐えているとき、人は孤独である。どんなに愛し合っている恋人でも、どんなに仲の良い友人でも、私たちが感じている激しい痛みを脳から取り出して手渡しすることはできない。私たちの脳のなかにやってきて、それが感じている痛みを一緒になって感じてくれる人は、どこにもいない
「ほかならぬこの『私』にだけ時間が流れること」という構造を、私たちは一切の感動も感情も抜きで、お互いに共有することができる。
自分がこの自分に生まれてしまったことは、何の罰でも、誰の生でもない。それはただ無意味な偶然である。(略)ここにはいかなる意味もない。
だから私は、ほんとうにどうしていいかわからない。
『男性は何をどう悩むのか』
そもそも男性は悩むことが苦手なようだ、と読みながら思う。弱さを表明できず、怒ったりする。
もちろん「泣くな」「弱音を吐くな」と育てられた、社会的な背景「男らしさの鎧」がある。この鎧の重いこと、しんどいこと。
そればかりでなく複雑なことに、
男性支配の社会では、男性は構造的に加害者の立場にあります。そのため、一人の男性の中に、加害者性の側面と、男らしさによって抑圧を受けている側面が混在するのです。
という。確かに、自分を見つめれば、加害者である自分もいるし、同時に被害者的側面も持ち合わせる、アンビバレントな存在であることに気づく。その相反する属性に向き合うのは、ひたすら困難だ。
だから、男性相談においては男性を「ジェンダー化された男性」として、つまり「男性を人間一般とみなすのではなく、男らしさを期待され、それを実践する特殊な存在とみなす」。
アンビバレントな存在であるからこそ、開き直ってしまってはいけない。
男性の生きづらさとして語られる事柄の多くは、決して男性が女性よりも弱者になってしまっったり、われわれの社会が女性優位になってしまったりしたことによってもたらされたものではありません。むしろ、無理をして男性優位の体制を維持しようとすることの副作用として理解できるもの
背中合わせの困難さへのバランス。
メンズリブや男性相談は、男性の加害者性と、男性の受ける抑圧との間で倒れないようにバランスをとっているヤジロベエのようなものです。男性の受ける抑圧の側に倒れてしまえば、女性の犠牲の上で、個々の男性が楽になることにしかなりません。それは、男性問題を生み出している、男性支配のジェンダー構造全体を変えることにもつながりません。一方、男性の加害者性の側に倒れてしまえば、それは男性を矯正する取組でしかなく、メンズリブとも、男性相談とも言えないものになってしまいます。
『青が散る』
宮本輝について書こうと思って書けていない。短編もすべて面白いのだが、長編『青が散る』も面白かった。
新設大学のテニス部の話。最終的に夏子も祐子も燎平を好いているのは笑っちゃったが、惚れ続けた女にフラれたり、いつのまにやらテニスに熱中したり、いっつも友人と一緒にいたり、少しウザい奴がいたり、怖い人と関わったり、友人が自殺したり、先生が亡くなったり。青春小説がぎゅっと詰まっていて、読後感が甘酸っぱい。
しかし、1960年代後半といえば、学生運動の時代であったわけだから、この作品はうまくその時代背景から逃げている。同じ時代を描くにしてもたとえば三田誠広の『僕って何』や柴田翔の『されど我らが日々』のような陰鬱な印象を思い浮かべてしまうし、学生の頃の僕はそういう作品を好んでいた。あるいは村上春樹や村上龍のように冷笑的、第三者的立場を取ることも文学の一つのスタンスだと思っていたのだが、この作品は「学生運動など無関係」という、まあ大多数はそうだったんだろう、「普通の人」なのである。
当時の早稲田は、私のようにノンポリの学生がほとんどでした。にもかかわらず、60年代の大学を舞台にした本や作品のほとんどが、学生運動を中心にして書かれてる。僕の中では、「運動も盛んだったけど、そればっかりじゃなかったよね」という気持ちもあった。
学生運動にやけにこだわる方がおかしい、のかもしれない。
そういえば、『錦繍』も面白かったです。手紙形式で、愛を感じました。