Nu blog

いつも考えていること

大運動会について

いまさらオリンピックのことについて書きたい。

東京2020のこととしてはそこまで書きたいことはない。新種目の中でもスケートボードとクライミングは大変おもしろかった。スケートボードの緩やかな祝祭的ムード、自分がどうありたいかという生き方としてのストリートカルチャーは、この資本主義まみれのオリンピックの世界に、ひとつの違和感を作り出していたように思う。もちろん、ストリートカルチャーが資本主義に取り込まれていっていることには留意しなければならないが、取り込まれつつもしたたかに、ささやかに抗う姿勢があるように思う。クライミングは複合を見ていたのだが、採点方法がユニークだった。複合というのはいかに早く登れるかを競うスピード、いくつの課題をクリアできるのか競うボルダリング、いかに高くまで登れるか競うリードという3種類の競技全てに取り組む種目なのだが、その競技ごとの順位を点数とみなし、掛け算していく方式なのである。つまりすべて一位であれば、一掛ける一掛ける一で一ポイントなのだが、すべて二位であれば八ポイント、すべて三位なら二十七ポイントになるという。うーん、おもしろい。すべてが得意な選手がいないのも肝だし、その日の調子もある。どこかの競技で一位を取らないとかなり点数が跳ね上がる。みんなで登り方を検討するオブザベーションの時間もおもしろかった。ああだろうか、こうだろうか、と手を動かしながらコミュニケーションしている光景は微笑ましいものである。

既存の競技については、さほど気にかかったものはないように思う。まあ、テレビをつけるといつも伊藤美誠を見たような気がするくらいか。男女混合もシングルも女子団体も、大変な活躍であった。卓球というのは繊細な競技だ。あのような小さな球とラケットを複雑に操ることで、伊藤選手の目にはどのように世界が映っているのかと疑問に思う。想像を絶する解像度でボールの回転が見えるのだろう。もう一つ面白かったのは三段跳びか。これまで意識して見たことがなかったのだが、三段跳びのダイナミズムさはもう少し魅力よく描かれてもいいように思う。ピョーンピョーンと果てまで跳ぶ。すごいものだ。ロハス選手の助走前動作のかっこよさもよかった。

さて、そんな東京2020への感想はさておき、図書館で講談社文芸文庫東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』を借り、それが大変に面白かったので紹介したい。ちなみに同様の内容のものが新潮文庫からも出ているようである。私があまり本を読んでいなかった数年前にそんなブームがあったとは。

東京1964は、時代としては今よりも活字文化華やかりし頃だったからか、文学者にオリンピックのことを書かせようという機運が強かったようで新聞や雑誌といった媒体に三島由紀夫大江健三郎らを筆頭に、曽野綾子獅子文六北杜夫遠藤周作石原慎太郎といったメンツ、あるいは大岡昇平小林秀雄堀口大學中野好夫草野心平といった名前も見える。東京2020で、文学者が動員された気配はない。そりゃあコラム的に何か書いてたりはするだろうが、1964は動員という言葉がふさわしい。当時は動員するだけの意味があったわけだが、今やその意味がないので動員すらされないわけである。

さて、動員動員というのはなぜかといえば、開会式にかかる各人の言葉を見てみればすぐにわかる。冒頭佐藤春夫は「喜ばん富士も筑波も/はためきて五輪の旗や/へんぽんとひるがへる/日本の秋さはやかに」と高らかに歌い上げ、石坂洋次郎石川達三らは開会式が無事終わったことにホッとしつつ、閉会式までしっかりやってくれと書き、三島由紀夫は「やっぱりこれをやってよかった。これをやらなかったら日本人は病気になる」と感じたことを表明する。獅子文六も「日本もムリして、こんな大仕事をやって、ともかく、ここまでこぎつけたのかという感慨でいっぱい」と漏らすなど、種々の問題を孕みながらも始まったのだから、良いものとなってほしい旨が書かれるのである。これはまあ、動員ですよね。東京2020は、その役目をテレビさんが果たしたわけで、各局こぞって「なんやかんやで選手らがイキイキ活躍して良かったですな」という論調。メダルもたくさんで、ウハウハですね、という具合だった。前日までゴタゴタを報道し続けていたにもかかわらず、なかったかのように振る舞う姿は滑稽であった。まあ、とはいえ、テレビ番組というのは一人の人間が作り上げrているものではないから、二重人格、三重人格でも仕方がない。一本筋を通せという方が無茶である。

そんな中石原慎太郎は苦言を呈す。「国が持っている原爆の数が金メダルの数に比例するような昨今のオリンピックでは、参加者のユニットを国家という形で考える限り政治性というものを完全に脱色する訳にはいくまい」と喝破し、「民族意識も結構ではあるが、その以前に、もっと大切なもの、すなわち、真の感動、人間的感動というものをオリンピックを通じて人々が知り直すことが希ましい」と言う。国家や民族、政治、思想から離れた一人の人間の闘いを見ようじゃないかと呼びかけるのである。日本人選手にばかり目を向けて「外国人対外国人の白眉の一線を見逃してしまうことももっとも愚かしいこと」だという。だから表彰式に国旗も国歌も要らないとさえ言うのだから、なかなか強い言葉である。ううむと唸った。いまやそのような議論さえされない時代である。まるで自明のことのように国旗があり、国歌がある。試合前に人種差別に反対するなどと立膝をつくパフォーマンスもあったが、さほど話題にならなかったように思う。現代においては人種差別に反対することすらも企業の宣伝イメージになっていて、まあ、虚しいことと思われているのだろう。

などと思っていたら五日後の随筆で、同じ石原慎太郎氏が、日本選手の登場しないレースを見ていると一体誰のために金をかけてあんな豪壮な体育館を建てたのだと思う、と書き出すのでびっくりする。むろん5日後に書いたことなので本人も以前の主張を忘れたわけではない。「矛盾するが、どうも、こう日本選手の影が薄いと矛盾も矛盾でなくなる」というよくわからない理屈を述べ出す。つまり、どうも日本人には気迫が感じられない。それはどうやら他国の選手が国家を背負っているからで、日本選手はどうも孤独で自由な感じがする。それで負けている。つまるところ「真のインターナショナルなものは、真にナショナルなものを知覚し、確立しえたときでなければ志向できない」から、ナショナルなものを放擲するのはよろしくないぞと言うわけだ。いきなりの転換。驚き。ちなみにこのコラムの最後に、とはいえ、優勝者の国旗掲揚、国歌吹奏は不要だ、なぜならばこうも他人の国旗を仰がされ、国歌を聞くのはやりきれないから、とのたまう。おや、まあ、と言うより他ない。

石原慎太郎論を書く気はさらさらないが、このように文学者の心を揺さぶるダイナミックなものがあったと言えるのではないだろうか。従軍し、戦地を見た結果、「戦地の兵隊さんは頑張ってるんだぞ」と戦争肯定派になってしまうようなものであろうか。まあ、いつの時代も「頑張ってる人がいるんだぞ」と「いや、そもそもこんなイベント要らんだろ」は複雑に絡み合っているものである。

このほか、流石の美文で競技や競技者を描写する三島由紀夫や、競技場では愛国的に、しかし外国からのお客さまは大切に、というような紳士然としたことを描く大岡昇平や、どうせガヤガヤうるさいろうから別荘で、テレビ観戦しますよと超然とする中野好夫(これだけの金や努力を国民生活の改善に向けていればとも書く)や、大騒ぎでやった祭りの後はどうなるのか空虚なものを感じてしまうと漏らす遠藤周作、「やってよかった」と素朴に書くフリをしつつ「富士山に登るのと同じで、一度は、やってみるべきだろう。ただし二度やるのはバカだ」とちくりと刺す菊村到NHKの実況や解説に翻訳できないようなカタカナ語が多く国語が破壊されてると憤る村松剛など、とにかく各人各様あっておもしろい。半世紀前のことなのかと思うような既視感にもクラクラする。

とにかくまあ、もう、オリンピックはいいと思う。スポーツを人質にして物事を進めて、得する人が本当にいない。他所でやってもらうのが一番いい。選手も雑音に惑わされず集中できるし、日本国としても余計な金を使わなくて済む。どうせどこかがやってくれるのだから、日本でやる必要はない。例えば近隣諸国でやるのだけれど適した競技場がないので会場を貸してくれというような時には喜んで貸せば良いと思う。むしろこれからはそういうような、複数国開催で、すでにある会場を融通しあうようなオリンピックが規模的にはふさわしいはずだが、いかがだろうか。