Nu blog

いつも考えていること

無意味

最近相撲について書いてないよね、なんて思っているのは僕だけでしょうが(そもそも読んでいる人がほとんどいないんだから!笑)、なぜかと言えば、あんまり相撲が楽しくないから。ライフワークだ、などとほざいておきながら、それはどうなのと思わなくもないが、ライフワークだからこそ好不調の波もあるし、波があったとしても目を切らすことはないが、うんざりすることはある。

それどころかここ3ヶ月、ラグビーが断然面白かった。世界の代表選手が日本で大活躍した。ボーデン・バレット、TJペレナラ、キアラン・リード、マイケル・フーパー、マルコム・マークス、マピンピなどなど。

オフェンス、ディフェンス、セットプレー、レフェリーとのコミュニケーション、フィールド外での態度など、全ての場でラグビーが素晴らしく面白いスポーツであることを示してくれた。

そして、ラグビーをプレーし続けること、ラグビー選手で生きていくことの魅力を表現してくれた。ラグビーファンのみならず、今ラグビーをプレーしている若者たちにとって大きな意味を持つものだったと思う。

できれば高校や大学ラグビーの指導者らは、選手らに、トップリーグが魅せた創造的なプレーや選手らの生き方を「見る」時間を設けてあげてほしい。そして選手らも積極的に見るようにしてほしい。日本の運動部文化というのは、目の前の勝利を目指して、その時間のほとんどを練習に費やしてしまいがちだと思うが、人生は部活の後にこそあるものだから、「生き方」を見てほしい。

外国の代表選手だけでなく、2019日本代表選手らも、その実力を遺憾なく発揮し、それどころか周囲のレベルを一段階も二段階も引き上げて、トップリーグ全体のレベルを上げていた。これもまた素晴らしいことである。残念ながら引退する福岡の驚愕のランの数々は、数年後には伝説として語られることだろう。優勝して引退なんて前世でどんな徳を積んだのか。Twitterなどを通じ、ファンと直接交流している選手も多い。流選手は練習方法を公開しているし、岸岡選手は試合の解説など積極的に情報を発信している。引退後の選手らも解説者としてラグビーを盛り上げるための活動に取り組んでいる。

ラグビー好きによる「ラグビー好きのための」ラグビーではなく、ラグビー好きによる「社会全体のための」ラグビーであろうとしているように思う。ラグビー好きの中で閉じてしまうとその規模はシュリンクして衰退するが、中の人たちが推進力を持って広げていこうとすれば、維持拡大されていくだろう。

希望の見えるラグビー業界である。もちろん、トップリーグ終了後の新リーグ構想が未だ不透明かつ企業の撤退が相次いで報道されるなど、不安要素は少なくない。

また、女子ラグビーへの注目の少なさ、スポットの当てなさにも不安を覚える。「男のスポーツ」という閉じ方は避けてほしいと思うのだ。

先日、テレビ神奈川で神奈川県のミニラグビー大会の模様が放送されていた。男女混合編成で、性別に関係なく、積極的に前に出る子が活躍していた(むろん、その背景には体格や足の速さなど身体的な差や性格などの個人差があるが)。

2020年10月、ワールドラグビーは「体格、力、パワー、そしてスピードが危険度やパフォーマンス左右する決め手となる国際レベルの女子ラグビーへのトランスジェンダー女性の選手の参加を推奨」しない旨を決定した。つまり出生時に男性とされたものの性自認として女性である場合、女子ラグビーに参加できない、ということだ。国際レベル以外ではその限りではないとされているし、科学の進歩とともに定期的にレビューしていくとされているものの、この決定は大きい。

ちょっと妄想すると、どこかの国が男子選手に「私たちはトランスジェンダー女性です」と言わせて優勝する、みたいなことを懸念しているのだろうか。もしそうだとすれば、あまりにもトホホな懸念だと思わないだろうか。あるいはそうでなくとも、トランスジェンダー女性の選手数名が、相手の選手をなぎ倒し、得点を量産して優勝するとか? 本当にそんなことあると思ってるのかな。ちょっとバカバカしい。国別対抗である以上、国全体の競技レベルが上がらないとその国の代表クラスのレベルも上がらない。変な心配せずに、もっと競技振興に努めるべきではないか。

私が高校ラグビーをよく見ていた1990年代後半から2000年代前半における、外国人留学生のことを思いだした。花園ラグビー場で、口さがない人たちが気軽に「あんなん、反則やろ」「あっちの国は適当だから、彼らは20歳を超えているらしい」などと放言していた。うどんを食べながら言っていた。

当時は「ヘイトスピーチ」という言葉はなかったが、それに当たるだろう。外国から一人、言葉を知らないままやってきて、コミュニケーションが重要なこのスポーツにおいて、慣れない寮生活や当然日本語オンリーで進められる勉学にも励む一人の人間に対して放たれる言葉として、これほど不適切なものはない。

それだったら、最新の機械を導入して筋トレしているアスリート養成学校はどうなんだ、と思うし、そういう学校の生徒が留学生に突進してぶち飛ばしていたりして、そっちの方が金にモノを言わせてるのだから、よほど反則だと思う。

現在も日本代表には多くの外国出身選手が名を連ねている。時に「日本人より日本人らしい」と称賛され、時に「外国人選手ばかりで日本代表と思えない」とされる、この国のダブルスタンダードの闇は深い。

 

さて、長々と書いてきてそろそろ本題に入りたい。えっ? ここまではなんだったのかって? 知らんがな。

薄々お気づきだと思うが、相変わらず日本の麗しき「国技」たる相撲の外国人差別の激しいこと。吐き気がする、というより、もう吐いた(比喩)。

なんだっていうと、ご存知かどうか知りませんが「大相撲の継承発展を考える有識者会議」による提言書の残念な内容について、です。

新聞報道は訳わからないくらい短くまとめているので、まったくよくわからないから無視していい。これから私が要約いたしますので、皆さんも提言書に目を通してください。要約すると言いいながらどうしても途中ツッコミが入ってしまうので、要約しきれていない点はご勘弁願いたい。以下要約。

まず、大相撲の目指すべき方向性について、国際化に伴い本来の姿を失った柔道と海外普及という形で伝統文化を守り続ける剣道という他競技の現状を通じ、相撲は剣道的なスタンスを目指すべきと提言。乱暴にいえば、柔道はもはやクソだ、という批判なわけですね。有識者ってすごいな。無関係な他競技をディスるとは。相撲が柔道のようになると、勝負判定に点数化が持ち込まれ、体重別制度が導入されちゃう、と危惧する。妄想がすごい。提言書にはここで現役力士の宇良と炎鵬の魅力に関する記述が出てくる。好きなだけやん、というツッコミと宇良は140キロあるけどそのあたりどう思ってるのかな、とか思う。

要は国際化はダメなんだと、国際化したら日本らしさは常に侵略乗っ取り蹂躙されること間違いなしなんだと。どういうトラウマがあるのかわかりませんが、そういうことだそうです。なので、相撲は絶対に国際化しない! でも外国人力士がすでにたくさんいる。困った。どう説明しようか、よし、こいつら外国人力士は日本人になりたいんだな、あははは。「日本化」って言いたいけど、さすがにそれは同化政策と捉えられてよろしくないから「入日本化」という言葉で表すことにしよう!良い言葉だ!差別的でもないし、各国から勝手に来るもんだから、入れてやっているニュアンスも表せているし、すんばらしいぞぅ!

ちょっとテキトー入ってきましたがここで「入日本化」という話題沸騰のニューワードが登場するんですね。意味不明です。どう考えてもただの同化です、残念です。

ほんでまあ、なんか面倒くさくなってきたけど、とにかく日本の伝統文化を守るためには外国人には「入日本化」してもらわないといけないし、そのためには親方は日本人(日本国籍)じゃないとダメだ、という論法に行きつく。

その上で105の年寄名跡は90年続いているから伝統だけど、一代年寄大鵬以降できたもので根拠がないからやめましょうという謎の提言が唐突になされる。90年程度を伝統と言いつつ、一代年寄を否定するのは片腹痛い。一門制度や相撲部屋の維持など、好きなところは維持させつつ、嫌いなところは廃止しようとする恣意的な態度は理解し難い。

ちなみに新聞報道では」女性の外部理事を迎える提言」だとされているが、その前段では「相撲のことは相撲をやったことのある人にしかわからないから、女性理事40%以上というスポーツ庁のガバナンスコードは無視せよ」との提言がなされている。意味不明なのだが、お茶屋さんや会場案内、事務局には女性がそこそこいて活躍しているので大丈夫、というよくわからない段落もある。要は女は裏方に引っ込んでろ、相撲は男の世界だから黙っとれ、ということだろう。女性委員も一人いるのだが、どう思ってこの提言書を承諾したのだろう。読んでないのかな。

委員の意見抜粋は謎のお気持ち表明が溢れていて、意味がわからない。本当に素晴らしい提言書ですね、おつかれさまでした。

ガッツボーズや優勝パレードで出身国の国旗を翻すことや優勝インタビュー万歳三唱や三本締めなど、とかく白鵬関が嫌いらしいが、勝った後握り拳を作る力士など大勢いるような気がしますが、いかがでしょうか(名前を出すのは可哀想だが正代関が照ノ富士に勝った際など一つも問題にならなかった、本人はさがりを取っただけと説明)。あと出身地域を推しがちな日本人力士はどうなんですかね。地元のファンのためにがんばるのもやめておいた方がいいんですか。そうじゃないなら、なぜ出身国のことを大事に思ったらダメなんですか。優勝インタビューってNHKの放送が始まってからの行事だと思うのですが、そこにどういう伝統があるんですか。伝統ってなんですか。どういう伝統は守って、どういう伝統は変えていいんですか。電子機器は使って良いんですか、電車や車はどうでしょう。キャッシュレスはもとよりレジスターも機械ですけど、そろばん使った方がいいですかね。まじで。

委員会の座長である山内氏が読売新聞に寄稿しており、今回の提言のあらましを書いていらっしゃる。そこではなぜかスキージャンプやフィギュアスケートなどの採点競技は恣意的にルール改正されてダメだ、とまたしても他競技をディスり出しててびっくりする。相撲は採点競技じゃないんだから、そこに噛み付いてどうするんだろう。そして大相撲は勝負審判もいるし、ビデオ映像も導入しているから「国際的」だと豪語する。勝負審判が手を挙げるかあげないかはその審判個人の主観が入る部分もあると思うのだが、そういうことは思わないらしい。今場所の照ノ富士に対する物言いは、ある意味自分の弟子に厳しめにいかないと批判を浴びるだろうことを憂慮した伊勢ヶ濱さんによるやや恣意的な結論だったように思うが、どうか。髷も投げも、見方によっては「体が死んでる」ため照ノ富士の勝ちとして差し支えないものだった。その上、行事軍配に不服を言い立てる力士は大相撲の徳や嗜みを無視していると怒り出す。伝統的に相撲業界は勝ち負けへの不服がたくさんあって、預り制度ってのがあったくらいなのだが、大昔の人らは相撲の徳や嗜みがなかった、と言うのだろうか。怖いな。最終的に16世紀フランスのモンテーニュの言葉を引用して、勝負で強くても徳がないとダメだと言い出すのだが、なぜ大相撲の話をしているときにモンテーニュが出てくるのかよくわからない。かつて双葉山がこう言った、とかならわかるんですけど。

はい、もうこれで要約終わり(全然要約する気がない)。

言いたいことはこれだけ→「外国人力士嫌いはわかった。だから、せめて「差別している意識」を持ってほしい。差別じゃないと言い張るのはやめてほしい。本当に恥ずかしい」

長々書いてきましたが、これだけ。照ノ富士優勝は感動です。偉大。来場所から横綱でいいと思う。でもこの調子なら、来場所も照ノ富士が優勝するし、横綱になる。そうなってほしい。はい、ありがとうございました。終わり。

 

追記:相撲関連の近刊として、和田靜香・金井真紀『世界のおすもうさん』と小谷野敦『大相撲40年史』を読みました。『世界のおすもうさん』はとても良い本。子供、女性、実業団、沖縄、韓国、モンゴル、世界中、いろんな相撲があることを体感する一冊。相撲を愛するとは、広く世界を愛することであって、「大相撲」だけを愛することとは違うと痛感。『大相撲40年史』はさほど楽しめず。外国人嫌い、日本の「大相撲」固執八百長疑惑へのこだわりなど、いまいち感覚が合わない。朝青龍を朝青竜と誤字したり、控え力士の物言いは白鵬しかしたことないような記述など、校正にも難あり。個人の感想だから事実誤認も許容されるのか? 私がよく知らない80年代の記述も、話半分に読まざるを得なくなるなと思った。

追伸2・有識者会議の報告書について月刊誌『相撲』6月号に要旨が掲載されていた。末尾に注が設けられており、報告書内の年寄名跡に係る事実誤認について指摘されている。いわく、江戸時代、貞享元年(1684)において「雷、玉垣伊勢ノ海など15」の年寄名跡があったと言うが、実際は「玉垣伊勢ノ海」の名前は見当たらないとのこと。また当時は年寄ではなく「忽仲間と称していた」そうで、いずれにせよ当時の名前は一旦断絶(雷と中川を除き一代限りで消滅)。190年後の明治10年(1935)に小車が尾車として年寄名跡の復活をするまで15人で残った者はいない(消えた名前は大獅子、一二三、柳など)。玉垣伊勢ノ海は1700年代からの名前であるらしい。また「昭和2年に現在と同じ105になり、その後は増減していない」は「明らかに勘違い」だとか。昭和2年は108つあったそうで、105になったのは昭和34年とのこと。これは有識者としては痛恨。しかものちの論旨に影響を与える事実ではないだろうか。