『99%のためのフェミニズム宣言』(2020、人文書院)を読んだ。
冒頭、シェリル・サンドバーグの『リーン・イン』を「企業(コーポレート)フェミニズム」「資本主義の侍女」と喝破し、コーポレート・フェミニズムが「"男性"による搾取や抑圧」を「支配階級の"男女"による搾取や抑圧」にすげ変えるだけでしかないと指差す。
「99%のフェミニズム」とは、全ての搾取と抑圧の元凶である資本主義に終焉をもたらすこと、上司や国境のような支配的なシステムを終わらせることなのだという。
普段、CMの表現がどうだとか弱者男性がどうだとか、フェミがフェミがと騒ぐTwitterのアンチ・フェミニストからすれば、キョトンだろう。話が壮大なのである。
しかし、本書はあくまで冷静に言う。新自由主義が略奪的で圧倒的多数の人々の生活環境を悪化させてきたのだから、フェミニズムは反資本主義的な方法で現在の苦境を超えて新しい社会を求めなければならないと。
「リーン・イン」とは、新自由主義の支配階級の「内側に入り込む」ことであり、体制の一員になること。だから、断固拒否のだと。
新自由主義にとって、コーポレート・フェミニズム(=リベラル・フェミニズム)は完璧なアリバイ作りになる。解放の雰囲気を生み出し、「進歩的」な演出を与えてくれるからだ。
コーポレート・フェミニズムの担い手たちも、女性全体を単純に「過小評価されている」と位置付けることで、自分たちが同じ階級の男性たちと同等の地位や給料を「確実に」得られるように仕向ける。
新自由主義が大声で喧伝する「権利の実現」はいつも有名無実で、抑圧のかたちを変えるだけだ。
・コーポレート・フェミニズムが主張する「能力主義」の恩恵を受けられるのは、すでに社会的・文化的・経済的なアドバンテージを有する人たちだけで、それ以外の人たちは地下室から出られない。
・中絶の合法化は、リプロダクティブ・ライツを進めたように見えて、貧しい女性にとってはその費用を払うお金がなく、中絶手術を受けられないから、なんの意味もない。無料かつ非営利な医療を共に実現しなければならないのに。
・賃金の平等を制度化しても、生活に必要なだけの賃金を払ってくれる仕事はなく(マック・ジョブ(将来性のない仕事)しかない!)、行使可能な権利もなく、家事や介護の新たなあり方が模索されない限り、惨めな平等でしかない。
かように、新自由主義はスローガンだけ唱えて、経済的な支援や実質的な運用を疎かにすることで、現状が変わらないように、権利が意味を持たないようにうまくやる。
コーポレート・フェミニズムの担い手たちは、共犯者として出世階段を登り、家事やケアを薄給の移民女性に外注する。これもまた、抑圧が居場所を変えるだけ。「能力主義」に目が眩んで、階級や人種に対して無関心になる。能力主義の名の下に、人々を個人主義化し、孤立無援に追いやる番犬、羊飼いにもなる。
だから「99%のためのフェミニズム」は階級闘争を宣言する。誰一人取り残さない、階級闘争。困窮の根源は資本主義。それに真っ向から立ち向かう。
選択肢は新自由主義(クリントン)とポピュリズム(トランプ)の2つしかないわけではない。どちらも資本主義に基づくもので、フェミニズムの敵だ。99%のフェミニズムはどちらにもつかない。
がっちがちの反体制である。反人種主義だし、反帝国主義だし、エコ社会主義だし、国際主義だし、全てのラディカルな運動と連携する。
資本主義を擁護する能力主義や多様性推進企業、エコ資本主義にも、労働者階級のコミュニティーを引き裂く軍国主義、外国人嫌悪主義、民族主義(これらの者たちはひそかに悪どい金権政治を推し進めながら、「自らを「普通の人々」の代弁者だとうそぶいている(p106)(!))にも、どちらにも反対する。
さまざまな立場を「多様性」などという言葉でうやむやにせず、さまざまな抑圧はそれぞれ独自の特徴を持つものの、偶然ではなく、「資本主義によるもの」と認識する。資本が作り育んだ文化や人種、民族、能力、セクシャリティ、ジェンダーによる分断を乗り越える。
賃金労働に対する運動だけが反資本主義ではない。
だから、フェミニストによるストライキは有償無償に関わらない、全ての労働をストライキする。家事、性交渉、笑顔からも撤退する。資本主義社会におけるジェンダー化された役割全て。
ストライキによって、必要不可欠な活動、社会構造が浮き彫りになる。何が私たちを抑圧しているのか、闘争すべき相手が明らかになったのだ。
99%のフェミニズムとは、「(女性の)99%」ではない。「(人間の)99%」だ。敵は社会を牛耳る1%である。それ以外の全ての人を救うフェミニズム。性別も、人種も、能力も問わない。
「フェミニスト的であると同時に反人種主義的、反資本主義的なヴィジョンで武装し、私たちは私たち自身の未来を創っていく主たる役割を担うことをここに誓う」
アナーキーな宣言だ。アナーキズムとは、だれにもなんにも支配されないこと、なにかのためにやるのではなく、始まりも根拠もなく、突然起こるものである(栗原康『アナーキズム』より)。
本書は誰かの導火線になる。いや、自分自身の導火線にならなくてはならない。そう思わせる強烈なマニフェストだ。
以前、「男性はなぜ自分の今持つベネフィットを手放してまで、フェミニズムに加わらなければならないのか」と考えていたが、このマニフェストを読み解けば「男性に与えられている諸権利や利益も、所詮資本主義・新自由主義に与えられた僅かで惨めで、吹けば飛ぶようなものでしかない。全員が、もっと多く得られるフェミニズムに加われ!」と言っていることがわかる。手放すのではなく、もっと多く得る。これは魅力的な誘い文句ではないか。
だから、最後に。フェミニズムが自分を抑圧していると感じるならば、あなたは1%、つまり支配階級か、または支配階級に加担する奴隷根性の持ち主か、いずれにせよ資本主義の申し子だ。
そのことにまず気づかなければ、あなた自身の不満から逃れることはできない。
ぜひ本書を読んで「俺を認めてくれる女さえいれば」などという呪詛が、何によってもたらされたものか気づくべきだ。たとえこのマニフェストに賛同しなくとも。