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損得勘定ー『存在しない女たち』の感想

キャロライン・クリアド=ペレスの『存在しない女たち』を読んだ。副題は「男性優位の世界に潜む見せかけのファクトを暴く」。

データにおけるジェンダー・ギャップをこれでもかこれでもかと示す本書。

なぜそんなギャップが存在するのかという分析には踏み込まない。しかし、ここまでたくさん存在するジェンダー・ギャップは、単なる偶然なのか?ということを問うてくる。

 

この世は男性が基準の世界。

manという言葉から、それが男性なのか人間のことかわからない。というか、人間とは男性のことなのである。

科学者の絵を描いて見たら圧倒的に男性を描くし、「わたしたち」の絵を描くように指示してみても、女の子でさえその絵の中に女性を描かず、男の子に至っては誰も女性を描かなかったという。

子供向け番組に登場するキャラクターでメスが占める割合は13%、人間の女性でさえ32%、一般向け映画でも女性の登場人物は28%、スクリーンに映る時間も台詞の量も男性の方が多いとか。

「女性作家たち」を取り上げる研究は当たり前なのに「男性作家たち」を取り上げた大学の講義はニュースにさえなるらしい。

アンディ・マリーに対して「オリンピックでテニスの金メダルを2つ取ったのはあなたが初めてだ」と記者が称賛したところ、マリーは「ヴィーナスとセリーナはそれぞれ4回取っているよ」と訂正したとか。

 

とにかく私たちの知識の大半を男性に関するデータが占めているから、男性=人間、普遍的と見做してしまう。

 

たとえば道路建設に巨額の予算を投下しがちだが、バスへの財政拠出は削減されており、バスの運賃は上がっている。

女性は子供を預けたり、介護施設に寄ったり、帰宅途中にスーパーに寄ったり、トリップチェインと呼ばれる移動パターンを持ち、バスの利用者の多くは女性なのである。

であるから、予算の多くを車用の道路に使い、バスに対する予算は削減したことは、結果として男性優遇に資することとなる。

あるいは、労働時間は週48時間を超えると健康被害が生じるのだが、女性の場合労働時間が週41から55時間でもメンタルヘルスに問題が生じる。

しかし労働時間が41〜55時間の男性の場合、むしろ心臓病や慢性肺疾患、うつ病のリスクが低くなるそうだ。

女性は男性よりも弱いのか? そうではない。

女性の中でもケア労働がすくない人々は男性と同じようにメンタルヘルスへの悪影響は現れない。

つまり、要は女性の多くが無償労働に従事していて、その時間が労働時間に乗っかっているのだ。

 

実力主義も神話であると喝破する。

採用の現場では今AIを使った選考が始まりつつあるが、AIに覚えさせるアルゴリズムはこれまでの偏見に満ちたデータなので、「ガベッジ・イン、ガベッジ・アウト」、ゴミを入れたらゴミが出てくる。

たとえば「日本の漫画のウェブサイトをよく見ているのは優れたプログラミング能力を示す有力な判断材料」とされたケースがあるらしいのだが、これは男性プログラマー無償労働を担っておらず、空き時間に漫画のサイトを見ているというだけのことで、女性プログラマーは無性労働を担っているのだから、そんなサイトを見ている暇はない。日本の漫画サイトに限らず、男性が見るコンテンツが性差別的なものだとして、それが採用の判断材料になっていれば? なおさら女性はそんなコンテンツには触れないし、結果として女性は採用されなくなる。ゴミがゴミを再生産する態勢の出来上がりだ。

昇進においても問題があり、自己推薦する女性は男性よりも少ないとされる。だからといって女性に対して自己推薦するように尻を叩くのが正しいのか? 男性のやりかた、男性の自己評価が高すぎると考えるべきではないか? クオータ制は「不適任の女性の採用を助長することはなく、むしろ能力のない男性を除外する」とか。

女性に男性化するように求めて解決しようとすることを著者は『マイ・フェア・レディ』に出てくる教授から取って「ヘンリー・ヒギンズ効果」と呼ぶ。つまり「なぜ女は男のようになれないのだろう?」というわけだ。

軍隊においては男性に合わせて作られた背嚢やピストルベルトなどのSサイズしかなく、女性用がないためケガの原因になっているという。あるいは、オーバーオール着用が基本とされ、そこには前部のファスナーしかないこともある。そう、女性は衣服を全部脱がないと小用が足せないのだ。ツーピースの制服を支給するだけで良いのに、全然前に進まないという。

 

雇用の流動化に伴い「ジャスト・イン・タイム」のシフト対応が求められることも多い。しかし、これは子育ての必要な人にとって対応が難しい。保育サービスはそんな臨機応変に対応してくれないからだ。「アメリカ各地のスターバックス17店舗において、1週間前に勤務スケジュールの連絡があると回答したのは2名だけで、なかには前日に連絡を受けたというケースも散見された」という。雇用さえもモノ化されていく世界では、子育てはできない。

 

男女差を考慮しない(男性用を基本としている)製品も多くある。たとえばiPhone。もはや女性の手には収まらないサイズで、女性の服のポケットにも入りきりはしない。スマホのカメラのズーム機能が使いにくいと愚痴ったら、男性に「俺のは使いやすいよ」と同じ機種を見せられた、なんて話が紹介される。男女間で如実に使い勝手の差が出るのだ。

 

画像検索の結果にも男女差が出ることがわかっており、アメリカには女性のCEOが27%いるが、「CEO」で画像検索すると、表示される画像の女性の割合は11%だったという。「著者」の検索結果も女性は25%、実際には56%いるのにもかかわらず。

翻訳においても「彼/彼女は医者です」というトルコ語が「He  is  a  doctor」と訳され、反対に「彼/彼女は看護師です」は「She  is  a nurse」とされるらしい。

まったくAIのくせに、なんとも人間らしいことだ。

 

子宮内膜症の治療を行う医師へのガイドラインに書かれている「主な推奨事項」には「女性たちの話に耳を傾けること」と書かれているそうだ。女性たちの訴える痛みにたいして私たちは耳を傾けず「ヒステリーだ」と決めつけてしまうのである。

私たちは女性の発言に耳を傾けない。

クオータ制により女性議員の割合を増やしたとしても、女性が意思決定に関わらなければ意味がない。

しかし、男性中心のネットワークが形成されている現状、多くが「女性を締め出した非公式な場」で話し合いが行われており、女性が正式な会談に出席したところで意思決定に関われないことが多い。

そもそも男性は人の話を遮る。反対に女性は話を遮られやすい。

議会で女性が大声を出すと注意されるが、男性が大声を出しても誰も注意しない。それは重要なことか? などと言われることもしばしばだそうだ。

コーポレート・フェミニズム的には「相手に話を遮られたら、同じようにやり返しなさい」「礼儀正しく相手の話を遮るスキルを磨きなさい」というのだが、女性が相手の話を遮ると「質問の仕方がなっていない」「ヒステリック」と批判される。カマラ・ハリスが司法長官に厳しい質問を浴びせた時、別の男性議員も同じ態度だったにも関わらず、ハリスだけが批判された。

だから著者は「男性の振る舞いこそ人間の基準だと言わんばかりに、女性に対して「もっと男性のように振る舞え」などと言うのは、役に立たないどころか、かえって害になる可能性がある。いま本当に必要なのは、男性は女性よりも相手の話を遮ると言う事実を認識し、女性が同じことをすれば不利な立場に置かれることを考慮したうえで、政治環境や労働環境を整備することだ。」という。

コーポレート・フェミニズムへの簡潔な答えがここにあったとは。

 

問題は大きく分けて3つ。

第一に、不可視な状態になっている、女性の体の特徴について考慮すること。世界のデザイン、設計が女性にとって非快適な、危険な場所になっていること。

二つ目は反対に、見えている女性の体について、つまり女性に対する性暴力について対策すること。男性は女性の姿を目にしただけで見下したり、声をかけたり、口笛を吹いたり、果てはレイプしても構わないと思うようになっている。

第三に、無償のケア労働の問題。女性がすればいい、と思っている世界のままでは女性の給料は低いし、子供が生まれれば仕事を辞めてパートになることが当然のままになる。

 

「当たり前だと思っているから。気づかない」と著者はいう。「従属的な性として扱われる場合はやたらと人目につくのに、肝心な時は−−データを集計すべきときには、見えない存在になってしまう」と。

差別に対する認識の欠如。それが差別を助長する、訳者はそうまとめる。本書の続編は「すべての人にやさしい世界を設計する方法」だとか。

 

この本を読んで「俺にどうしてろって言うんだ!」と思いが一瞬でもよぎったことを書いておきたい。

つまり、データにバイアスが潜むことは理解した。で、男の私は何をすれば良い?

どうしたって私は男性で、完全に得している方だ。

この状況を是正するような権力も持ち合わせず、むしろ権力者のせいにしながら利益を受けていられる。

男性に責任が負わされすぎている、なんてことも聞くが、人生の自己決定権を持っているだけで、そんなに楽なことはない。やりたいことをやればいいし、やりたくないことはやらなくていい。男性は自殺だってできるしホームレスにもなれる。なんて素敵な身分なんだ。

現状、とってもラッキー。「僕が直接足を踏んでいるわけじゃないよ」と、ジェンダーギャップ指数が120位でも意にしないでいられる。

この本はだれが読めばいいのか? 女性? これはすべて女性の問題?

模範解答はわかってる。こうした差別に気付き、男女双方に協力し、取り除いていこうと。だから、たとえば身近なところから、家庭で、職場で、地域で、公共交通機関で、本書をきっかけにした気付きがないか、自分に何ができるか、考え実行すること。

しかしそれでも頭の隅っこにひっそりと「それってお前に何の得がある?」という言葉があることから僕は目を逸らせない。

たとえ「愛する人が差別されてるんだよ!」と言われても、損得勘定はめちゃくちゃでかい。「愛する人のことは個別に俺が守るからさ、ね?」みたいなテキトーな言い訳を用意してしまう。

「世界全体で男女格差の解消にかかる見込み期間は135年」らしい。むべなるかな。