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いつも考えていること

『サムジンカンパニー1995』

映画『サムジンカンパニー1995』を観た。

 1995年の韓国、グローバル化を進める財閥企業で働く高卒女性社員たちの物語。高卒女性社員は、大卒の補助扱いで、彼らのためにコーヒーを入れたり、買い出しに行ったり、クリーニングを受け取ったり、雑用係。でも、書類の場所など会社の隅々について知っているのは彼女たちで、大卒社員は彼女たちなしには仕事が回らない。そんな中主人公のジャヨンは近郊の工場から出されている排水が、近隣の川を汚していることに気づく。その川の汚染を上手に報告したはいいものの、会社は事実を隠蔽する。隠蔽したのは主任か、課長か、部長か、常務か、それとも…。愛する仕事と職場のために、仲間と共に立ち上がる。そんなお仕事映画である。

「1995年の韓国」という時代背景は、日本のそれとあまり変わらないのではないか(肌感覚がないからこのあたりはわかってないのかもしれない)。眉毛細め、トレンディな服装、女性の社会進出とおじさん文化、パソコンの普及に伴い仕事のやり方が変わり、グローバル化の波も押し寄せる。そんな時代。日本は長く暗い、今に続く不況へ迷い込むところで、韓国はこの後に通貨危機を迎える。

ユーロビートなBGMも時代を感じる。日本で言えばTKサウンド。そういや、韓国映画のリメイク『SUNNY』(篠原涼子主演)が1995年を舞台にしてたのか。韓国の原作は80年代の高校生を主人公に据えてたから、本作のヒロインらと同世代ということになるのだろう。『82年生まれ、キム・ジヨン』がその後続世代を描いたと考えると、韓国フェミニズムの世代的な流れを感じさせられる。

物語はネタバレというほどのことはなく、まあ主人公らの頑張りによって社内が一致団結し、事件は解決されるというものなのだが、先に述べたような作品(SUNNYやキム・ジヨン)を経た私たちには物足りなく感じられるだろう。

そもそも高卒女性社員を虐げてきた男性社員らが仲間になることや、会社が正常化し自身が出世することで仕事にやりがいを見つけられるエピローグなど、ほんまにそれでいいんかいな、と思わされてしまう。

そんなに男性も会社も甘くなくて、出世したとしてもまだ女性差別は続くし、会社は簡単に社員を使い捨てる(それをきちんと描いているのが韓国フェミニズム文学なわけです)。それを着地点とすることへの違和感はどうしても拭えない。

むろん、たとえば今新入社員の方がこれを見て「お仕事がんばるぞ!」とリフレッシュされることは妨げられない。そういったお薬的な要素は多分にあるし、そうした効能を素直に表出することもエンタメの役割だ。正直言って、エンディングのドット絵を楽しんで見ながら、私は本作を人に薦めたいと思った。

しかしまあ映画館を出て妻の表情を見てると「あ、ちゃうな」と思った次第で、考えてみればまるで全て解決したかのようなエピローグだったが、本作は何も解決してないと言ってしまってもいい。賠償金を積み増すことになったとはいえ、重い病は消えないし、土壌汚染やそれに伴う被害、かの地域のコミュニティは破壊されただろう。この直後迎える通貨危機で、彼らの中のかなりの人数がリストラされることになるだろうし、ましてや女性高卒社員なんて真っ先にその対象になるのではないだろうか。などなど。実際まあ、韓国に限らず日本の私たちも国家や企業から時には仲間扱いされつつ、いざという時には放り出される経験を繰り返してきた(個人の体験だけではなく、社会の歴史の話)。だから、エンタメの世界と言えど、キレイにまとめて終わられても困るのである…。

 

とりあえず参考文献として『OLたちの〈レジスタンス〉』を挙げておきたい。主として女性に割り当てられてきた一般職(昇進のない補佐的な職種)という役割が男性社会にどう対峙しているか、結果としてジェンダー規範を再生産していること、そして今後そのようなある種の余裕が企業側になくなっていくことを予見した一冊である。日本と韓国の違いはあれど、かつての労働環境を知る一つの補助線になるものと思う。

 

先述の通り、本映画は人に薦めたいと思える作品ではあった。それは手放しに褒めるためではなく、場面場面を批判的に見るためでもある。ぜひ。