Nu blog

いつも考えていること

アンチ読書週間

心のどこかで本なんか読まずに済むなら読みたくない、と思ってる。それでもバカスカ本を借りて読むのは読まないと何も思いつかないからである。

秋だし読書週間だからpenもGINZAも散歩の達人も読書特集をやっている。minaまで読書事情調査とかやってる。週刊新潮は学生の読書時間0が50%で日本が滅びるとか言ってる。新聞各紙も社説で本を読んで人生を見つめ直せとか偉そうな説教を垂れてる(「社説 読書週間」で検索せよ!)

本を読むことは良いことだと誰もが言う。

作家やら芸能人やら学者やらが本を読むことで得られる何かについてしたり顔で語ってる。やれ、想像力がどうだとか、語彙力が思考力がどうだとか、心を豊かにするとかどうとか、それっぽいことを言っている。

たしかに僕は本が好きだ。小説やエッセイを読んで心動くときがたくさんある。言葉とはなんと豊かで残酷で、楽しくて悲しいものなのかと思わされることがときどき訪れる。あるいは学術書を読み、新たな知見を得ることも感動的だ。そんな考え方があったのか、と目から鱗が落ちる経験は何度したって飽きたらない。一一般書が複雑なことをわかりやすく解説してくれるのも、いろんなものの見方を知ることができてハッとさせられる。

それでも、本を読まなくて済むならその方がよほど素敵なことだと思う。

リアルな体験、経験に基づく感動は、絶対に失われない。本を読む感動よりも、そちらの方が絶対に強い。インターネットじゃ得られないリアルな経験を売りにする業界はたくさんあるが、もっと前から本はリアルと闘わされてきた。本を読んで得られるものは経験ではなく、知識である。実際に自分が体験したことを上回ることはない。などなど。

だから単に本を読めと言う人のことは信用ちゃならない。

本を読むことよりもいろんなことを実際に体験せよ、と推奨する方が道理である。

勘違いされがちだが、お家でスマホを眺めていることだって一つのリアルな体験だ。インスタグラムを眺める経験は、本を読むことで得られるものではない。かけがえのないあなただけの時間だ。

それでも僕は本を読む。なぜならば、書を捨てて町へ出て、実際に自分が体験できる量には限りがあるからだ。一時間で体験できることは一時間分である。一時間本を読めば、本の中に横たわっている何百時間、何千時間の経験を浴びることができる。

しかし中には一時間のリアルな体験で、一時間以上のことを学ぶ人もいる。そういう器用な人であれば、本に書いてあることなんて、大抵知っていることばっかりになるから、必然本を読む必要なんてない。本を読むくらいなら町へ繰り出すべきである。僕は一時間のリアルな体験から、何も学べないことすらあるから、やっぱり本を読まなくちゃならない。かわいそうな人なのである。

何を読めばいいかわからない人は読まなくていい。何を読めばいいかわからない時は、自分の心が何を欲しているか知ろうとすべきであって、むやみに雑誌などを読んで購買意欲や学習動機を植えつけられる方がよほど不幸だ。

ツイッターを見てたら一日が終わってしまった…、とは本を読んでいたら思えない。その気持ちを味わえたのは一日中ツイッターを見ていたあなただけのかけがえのない経験だ。それを大事に思えないうちは本を読んだって響くわけがない。そういう人は本を読もうが映画を観ようが美術館へ行こうが、何をしたって「それだけで一日が終わってしまった、無駄だった」と思うだけだ。

一日中スマホを見て、一日以上の体験を得ようとすることだってできるはずだ。

だから、読まずにいられるならそれは幸福なことである。たっぷりと自分の時間を味わうべし。

これを皮肉だと思うならあなたは相当な羨ましがり屋だ。羨ましがり屋は何をしようが、何をしまいが、人のことを羨む。それならそれでいいが、読まない時間に得ているあなただけの経験を、蔑ろにしてはいかがなものか。

もしかしたらそのためにこそ本を読む、と言うことがあり得るかもしれない。

いやさ、結句、本を読んで人生を見つめ直せ、とはその通りであるかもしれない。ぐるぐるぐるぐる。