Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(シュレーディンガーの子ども)

大学時代の友人に子供が産まれた。こんなご時世だから顔を見にお宅へお邪魔するのも憚られる。ウェブ会議システムを使っての飲み会も、一度やったら飽きてしまった。

どうせゼロ歳児を見たって可愛いなくらいしか言いようがないんだから、三、四年経ったら見に来いよ、なんて話になった。いずれ折を見て一杯やろう、てなことも約束して。

なんにせよ祝いの品を送りたいから、名前と性別を教えてくれと頼んだらば、しばらく返信が来ない。まあぼんやりと「出産祝い」などのキーワードで検索をしていたらば名前は「つばさ」だと返信が来た。

「男の子か」と問うたらば「ちんちんがついてるかどうかで言えばついていない」などと訳のわからん返事が来た。

「女の子か。本田翼とかいるし、女の子でもいい名前やな」とボソボソ返したら「性別がどうだこうだってのは、今自分ではあんまり考えないことにしてるので、なんぞお祝いの品をくれるにしても女の子だからなんてことは考えなくて良いよ。もらう側から注文して申し訳ないが」と返ってきた。

神田伯山みたいなこと言いやがる、しゃらくせえ奴だとちょっとばかり思ったが、「今時そうだよなあ。かつてフランスだかイギリスでは、ピンク色は男の子の色だった、なんて話も聞いたことがある。山田家の考えを教えてくれてありがとう。勉強になるよ」と、これはまあ皮肉も衒いもなく、返した。

ある意味において、と俺は考えた。ちんちんがついてるかどうか以上の判断基準を、今このゼロ歳児に対して俺たちは持っていない。成長し、社会性を得つつ自我を獲得する中で、身体や欲望、感情などと向き合い、自分の生き方を深めていくのだろう。男女どちらかに決まるわけではないシュレーディンガーの猫である。箱を開けてみても、開けた時々で観測結果はブレることがあるだろう。ましてや箱の中は(しかし箱を開けるのは親でも私たちでもない!)。

反対に受け手である現世俺らは、男女どちらかはっきりしてもらえたら、気楽なもんである。女の子には可愛いオベベやお人形さん、男の子には野球帽やプラモデルなんぞを与えればよいと、決めつけておけばよいのであるから。

しかしこれから先俺の性別が揺らぎ、現世の人々の安心を脅かす存在となる可能性も秘めている。友人に「おまえ結局なんやねん」と聞かれる日が来ても、なんの不思議もない。そして足立区が滅びるかもしれない。

そんなことを考えながら、めんどくせーから商品券でも送ってやろうと俺は考えていた。なんならamazonギフト券でええんじゃないか、など…。