志布志市には一度だけ行ったことがある。
友人と九州を旅行したその最終地点、フェリーに乗って帰るためだった。
数少ない電車を乗り継ぎ、たどり着いた志布志市での滞在時間は確か一時間もなかったと思う。ご飯を食べるでもなく、そそくさとその地を後にした。それだけしかかかわったことがないのに、「し」がたくさん入る地名のインパクトが強くて、今でも覚えている。
最近では、志布志と言えば九重部屋の関取、千代丸、千代鳳の出身地、というイメージ。
その志布志の「ふるさと納税PR動画」が話題、批判の対象となった。
ふるさと納税制度は、「生まれ育ったふるさとに貢献できる制度」、「自分の意思で応援したい自治体を選ぶことができる制度」として創設されました。
自分の生まれ故郷に限らず、どの自治体にでもふるさと納税を行うことができます
という制度で、名前に「納税」が付く通り、最終的には税金として以下の通り、控除の対象となる。
一般的に自治体に寄附をした場合には、確定申告を行うことで、その寄附金額の一部が所得税及び住民税から控除されます。ですが、ふるさと納税では自己負担額の2,000円を除いた全額が控除の対象となります。
各自治体にとっては重要な収入である。そのため、返礼品として納税額に応じた特産品を用意することで納税額を増やそうと努力している。結果、総務省の描いた当初の趣旨とは変質し、「よりコスパの良い納税先を探す制度」になっている。
さて、志布志市のPR動画とはどのようなものだったのか。公開と同時に評判を呼び、ぼくのタイムラインでもすぐに話題となったので、見た。
学校のプール、スクール水着の少女が語り手の男性に「養って…」と頼む。語り手の男性は少女が最適な環境で過ごせるよう努力する。天然水を引いてきたり、のびのびと育てたり。少女は学校のプールサイドで楽し気に遊んでいる。そして、「さよなら」と言って少女がプールに飛び込む。それと同時にうなぎのかば焼きの絵が重なる。少女とはうなぎの擬人化であり、志布志市がうなぎを最適な環境で育てていることのアピールだということが分かる。そして、最後に別の少女が「養って…」と新たに語り掛けてくる。
淡い色合いの、ノスタルジックさを醸し出した映像に仕上がっている。少女に「養って…」と言われる違和感は、印象に残るという意味では効果的か。
「養って…」と言われることが嬉しいかどうかと自分に問うてみれば、とりあえず女の子に何か頼まれたら大抵嬉しいかなあ、というスケベかつクソな反応しか出てこない。自分の心の中にもどこか「女の子に頼られたい」願望があることを否定はできない。
そして、プールサイドで水着の少女が戯れる光景は、男性にしてみれば自身の学生時代、「ありそうで、ありえなかった」憧憬に感じられる。
学校のプールで女の子と二人きり、みたいなシチュエーションは、男子校出身のぼくには有り得なかったことだから、「羨ましい」と思わせられたのも本音だ。
この動画は性差別的だと批判を浴び、一週間経たないうちに公開停止となった。
非常に分かりやすくまとめられた問題点は以下のリンクから。
「少女を性的に消費する文化を肯定している」という点、自分がその通りの見方――女の子に頼られたい、羨ましい――をしていたことにかなりうんざりする。
見る人が見れば、以下のような感想になるというのに。
・性的な眼差しで見ることを「暗黙の了解」としたスクール水着
・監禁のような犯罪を想起させる「女性の飼育」という状況
から、「少女を性的に消費する文化」の暴露を感じ、「何とも言えない不安な思いに駆られた」と千田有紀さんは言う。
可愛い女の子を見た後、「目の保養になった」などと言うことがある。男性だけでなく、女性でも使っている言葉かと思う。
この動画は「目の保養」を目的としつつ、「実はウナギの宣伝でした〜(笑)」という作りになっている。
この「(笑)」で笑えるのかどうか、笑えなくとも「へー」程度の感想で終えられるかどうか、は田房永子さんの「どぶろっくで笑えない」問題と通じるところがある。
例えば、お笑い芸人がギターを持って「老人の家に孫のフリして電話して助けを求めてみたんだ もしかしてだけど 間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」と歌っても、面白くないし不謹慎だしお笑いとして成立しない。それは、「オレオレ詐欺」という犯罪が実際にあることをみんなが十分に知っていて、その犯人はこういう発想で犯罪をしているということがパッとつながるからだ。そして同時に「老人に対する侮辱」も感じ、不快な気持ちになる。
だけど、「どぶろっくを笑う世界」には、痴漢などの性暴力は存在しないことが前提になっている。同じ世の中にそういった被害は実際にあるのに、その被害とどぶろっくは別々のものと認識されていて、観ている人たちの中で、まったくつながっていない。
「笑えない人がいるから(=不快な思いをする人がいるから)、一律ダメ」ではなくて、どうしてそれが笑いになっちゃう社会なんだろう、と根本から考えないといけない。
志布志市は
動画公開後に視聴者の皆様に不愉快な思いをさせてしまいましたことをお詫び申し上げ、
という理由で動画の配信を停止した。
鹿児島県志布志市 ふるさと納税PR動画「UNAKO」配信停止のお知らせとお詫びについて | 志布志市ポータルサイト
こういう問題の時、「不愉快な思いをさせたこと」を謝っても、この理由では何も根本的には解決しない。
誰も変わらないまま、終わってしまう。
役所や企業の倫理観では「間違いました」と言うと責任を負わされてしまうので、責任逃れの論理を構築することが上手くなる。
ぼくだって何年か前と比べたら、サラリーマンとしてずいぶん言い逃れが上手くなってしまった。
だから、本件で志布志市役所の人が全面的に謝れない気持ちは分からなくもない。謝ったらヤバい、と思う方が役所の倫理観的には正解かもしれない。
「どうして予見できなかったのか」を問い詰められた時、何て答えたらいいのか。「差別とは思いませんでした」なんて「差別だ」と指摘された後で言えるだろうか。せいぜい「人によっては差別的として不愉快に感じられる表現があったと思われます」程度のことしか言えないだろう。
それは、どこにでも起きうる「可謬性の否定」であり、世界から戦争がなくならない理由にもつながるような、そんな問題である。
人は誤るもの、という根っこの根っこからスタートしないといけない。
「知識についてのあらゆる主張は、原理的には誤りうる」