Nu blog

いつも考えていること

マーク・キングウェル『退屈とポスト・トゥルース SNSに搾取されないための哲学』

原題は『WISH I WERE HERE』。「私がそこにいたらいいのに」という高校英語で習った!みたいなタイトルである。

しかし、その原題が重要で、本書の確信を端的に言い表している。もちろん、邦題に掲げられた「退屈」も「「ポスト・トゥルース」もキーワードだ。このように言い換えた訳者・編集者は素晴らしいと思う。このタイトルでなく、原題のままなら、僕も手に取っていないだろうから。

 

小島和男氏による解説がわかりやすいので、参照しながら議論を振り返る。

まずキングウェルは、現状を「SNSの発達により自分自身を商品として企業に差し出し、企業によって行動を操作され、見たいものしか見ず、見たくないものが表示されなくなり、偏っていく」とする。これはマルクス・ガブリエル(なんか流行ってる哲学者)も同じ認識で、キングウェル独自の突飛な考え方ではないし、深刻ぶってるわけでもなければ、陰謀論者でもない。しかしながら、小島氏曰く、こうした現状を説明しても相手によっては「歪んだ状況を見て歪んでいると言うと、お前の見方が歪んでいると言われる、綺麗な図式の地獄」が発生するそうだが。

アマゾン、グーグル、ツイッターフェイスブックに自らを差し出してどこにも行けなくなった私たちである。インターフェース(イメージとしては「ウェブ上のSNS空間」、なんらかのプラットフォームやスクリーンを指すものではないが、まあ漠然とそんなものと捉えておけばよいように思われる。難しい)は入り口のように見えて、どこにもつながっていない、誘われてその門を潜った私たちは、嬉々として自らを商品として売ってしまうので、自分は売り切れてしまうのだ。そう、「私はそこにいたらいいのに」と思うばかりなのである。

ここでは、私たちは退屈を感じる暇もない。「暇だなあ」「やる気が起きないなあ」という気持ちにさせないために、インターフェースは私たちに働きかけてくる。ほら、電車の中で他の人を見てみたらいい(ほら、スマホから顔を離して!)。みんな、スマホの画面をなぜている。

「ある種のデバイスやプラットフォームで作られるインターフェースは、満足を約束しながらも、それを与えないようにうまくデザインされている。もう一度辛い現実に向き合おう。デフェイスブックは尽きることのない餌(フィード)だ。ツイッターはメッセージをぺちゃくちゃと発し続け、友人や仕事の同僚からのテキストは流れ続け、電子メールのボックスが空になることはないーー哲学的に言えば、こうしたものはネズミを使った実験の餌箱のようなもので、正しいボタンを押すことさえできれば、永遠に餌があたえられるのである。」「ドラッグと同じだ。」「こうした人々はその瞬間、退屈していない。」p229

退屈は、本来の自己に立ち戻る大切なもののはずが、その退屈を奪い取り、搾取する。キングウェルはこれを「ネオリベラル的退屈」と名づけ、私たちがインターフェースに閉じ込められている状態を喝破する。

私たちは「どうしたら幸せになれるのか」と、人間の目的を幸福追求だと思っていたりするが、そこからが誤りなのである。でなければ、インターフェースによって一時的に、その時その時の幸福を与えられている現在が肯定されてしまうから。ジャンクフードを摂取し、糖分や塩分の欲求を満たすことを続けていけば、それは刺激的な幸福を連続させるが、結果として後悔する。

じゃあ、どうすればいいのか。とにかく「スワイプするな」とキングウェルは言う。「そういうことはやめ、物事にこだわり、不思議に思い、内省し、そして何よりも汝の兆候を楽しめーーそれ以外に楽しめるものはないのだから」「我々はみないかに待つかを学んでいる」「退屈は前兆を示すが、解決策を示せるのは我々だけである。その上に、ほかの欲望をなぜ求める必要があるだろう?」と。p248

SNSに欲望を煽られ、掻き立てられるのではなく、自らの欲するところの欲望を形づくれとキングウェルは言う。この「ポスト・トゥルース」の時代、あらゆるコンテクストが組み合わされ、なんでも「真実」になり得ることがわかった今、「理性的な公共の空間」というものはユートピアに過ぎず、それでもなおSNSに入り浸れば、ひたすらに偏っていくだけなのである。

「我々は、無料の取引などないのだということを心に刻まなければならない。この種の取引において、あなたは自己の個人性、自由、幸福を代金として支払っているのだ。」p29

こうして「無料の」ブログを書きながら言うことではないようにも思うが、しかし、僕にとってはこのブログは「足場組み」の場であり、退屈と向き合うためのものでもある(誰からのコメントもないのは、もちろん別に求めていないし、キングウェルのいう「無理に友人であろうとしないこと」にもなっており、自然と好都合な状態でもある)。これからも、淡々と「いつも考えていること」を書いていきたいし、みなさまも「毎日更新」とかいって、意味不明な動画をYouTubeにあげたり、反対にその動画を見たりしている場合ではないかと思います。

 

 

なお、余談だが、「ターナーが日没を発明した=日常的な風景を「見る対象」として決定的に条件付け、ロマンスやノスタルジックな感傷を生み出した」という挿話があり、面白いと思った。

 

以上