Nu blog

いつも考えていること

日記

映画『怪物』を見る。

なぜ火事から話しが始まるのか、ということを妻と話していて、色々感想を述べ合う内に、思い至ったのは「火のないところに煙は立たない」という慣用句のこと。

この映画ではさまざまな噂が飛び交う。

先生がガールズバーにいたとか生徒を殴ったとか突き飛ばしたとか、あるいは校長が自分の孫を轢いたとか、なんとかかんとか。

また、観客である私たちもさまざまなシーンからたくさんのことを憶測させられる。

星川依里はいじめっ子なのではないかとか火事を起こしたのは彼なのではないなとか、麦野湊はいじめられているのではないかとか、校長は保身しか考えてないヤバいやつなのではないかとか、云々云々。

「火のないところに煙は立たない」。この意味不明な慣用句を盾に、あるいは免罪符に、わたしたちは噂を消費することにあまりにも抵抗感がない。

物語のなかでさらりと現れる週刊誌というのは、私たちの噂消費の装置で、そこに書かれたことはもはや事実とされてしまう。

そういうわけで、火事から物語が起こされる、これはものすごく意味のあることなのだろうと、つくづくおもう。

そういえば、「カリフォルニアの火事みたいにならないかな」というセリフもあった。火(=噂)の止められなさを感じさせる台詞であったように、おもう。

いろいろとかんがえることはあるし、謎の多い物語でもある。解決や答えを提示する気はないのだろうし、そんなものはない、ということがこの物語なわけだろう。

それぞれの視点から見える現実がある。そのようなことは当たり前だが、このように見せつけられると恐ろしく、美しい。

安藤サクラ演じる母親は勘違いばかりだったのか?瑛太演じる先生はある種の被害者だったのか?そんなことはないだろう。

それぞれの幕で、描かれないシーンがある。これは意図的な記憶の飛びなのではないだろうか。

瑛太演じる先生の、無意識であろう「男らしさ」の押し付けはすくなくとも子供たちにマイクアグレッションとして受け止められていて、それは暴力なのだろう。

高畑充希演じる(問題のあるレストラン!)恋人の「男の大丈夫と女の今度ねは信じちゃいけないって学校で教えてないの」というさりげないセリフに、男女二元論を滲ませていることにもあとから気付かされる。

芥川および黒澤の『藪の中』を当然想起するが、くわえて、星川という名前や、線路、あるいは車の中を輝かせた宇宙のような装飾、そして主役二人の近くて遠い距離から、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も想起する。

こども、というかにんげんが、生きていることで感じるすべての戸惑い。それは身体や性にまつわることもあれば、社会、人間関係のなかにもあるし、なにをしても、なにを感じても、すべてが初めてだ。すべてが初めてということを忘れちゃいけない。

だから、校長先生が管楽器を鳴らす場面、そして最後に走り出す二人と「生まれ変わったのかな」というセリフ、初めて生きていることを不意に思い出させられて、震えた。

管楽器は、第一幕でも二幕でも、どこか不穏な音として聞こえてきていた。象の鳴き声のようだと思った。

隣の席の女の子がBL本っぽいものを読んでいたのは気になったなあ。彼女の存在は、ひとつの大きな謎だった。

そういえば、自分も小学生の頃、靴がなくて、裸足、というか靴下で帰ったことがあった。なんだったんだろう。なぜ靴がなかったのか覚えていない。足の裏が赤くなったことは覚えている。母親に心配されたことも「上履きを履いて帰ればよかったのに」と言われたことも覚えている。

いじめられていた記憶はない。みんな優しい学校だったという記憶しかない。なんだったのだろう。母に聞きたいなあ。鈍臭い子だったから、そんなこともあるだろう。

ところで、巷ではなんか、小学校の運動会で男女混合にやったら、男子ばっかり一位だ、みたいなのが話題らしく、日曜日のテレビで取り上げられていた。

こういうところに、マイクロアグレッションが潜むのかとげんなりする。なんか、たとえば、私は女子として走りたいという子がいたら、それを受け入れればいいんじゃないか、みたいなことを言っている人がいた。他人にそんな意思表示を求めるなんて……とかなしくなる。

そんなふうにはっきり言えるほど、人間って自分のことがわかるのだろうか。

ひたすら曖昧で、優柔で、感情がただ渦巻くような、そんなものが人間だとおもうのだけど。

そもそも、速く走れることは良いことなのか?競技としてはそうだろうとおもうが、競技外の私たちにとっては、速く走れることなんかどうでもいいことではないだろうか。

走ったり、笑ったり、生きたりできる。

そのすべてを祝福するような、そんな態度はないのだろうか。

私はたいてい足が遅かったので、そんなことをおもうのかもしれない。足が速い人は、その速い人たちのフィールドで活躍すればいいのであって、わざわざ遅い人を打ち負かして、承認欲求を満たさないでほしいとかおもってしまうのだが、まあ、実際の教育現場でどのようなことをしているのかしらないし、これくらいにしておこうとおもいます。

映画のなかで、ドッキリがこどもたちのいじめの口実に使われていたことも忘れちゃいけない。

 

ドラマ「日曜日の夜くらいは」を見ている。今期ちゃんと見ているのはこれだけになってしまった。ソロ活女子はぜんぜんソロ活じゃないし、だが情熱はあるにのめりこめないし(Creepy Nutsかが屋が演じているなど小ネタが強い)、それってパクリじゃないですかはうっすら見ていて、わたしのお嫁くんは見るのをやめた。育休刑事は前田敦子が最高だ。あんがい見てるな……。

さて、「日曜の夜」。

たくさんの落とし穴があるこの世の中を予感させつつ、すこしずつ、歩んでいく三人組。おそるおそる。

みねくんとケンタさんとお母さんとおばあちゃんが見守っている、という図式だけで泣きそうだ。この人たちが裏切るような展開は絶対にないと確信できるのも心強いし、私もその一人でありたいと思わせてくれる。

脚本家の岡田さんは「生きていくのは大変だけど、騙す人ばかりじゃないよね、人は人を信用してもいいよね」ということを「ちゅらさん」や「ひよっこ」なんかで描いてきたから、信頼しながらも、ところどころに顔を出す罠の予感に、不安が抑えきれない。

 

霧馬山が大関昇進に伴い、霧島にしこ名を改めた。びっくりした。慣れるかなあ。

ぼちぼち、美術館とか行きたい。おもしろそうなのがたくさん。

ゆっくりと週末を渡る。