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いつも考えていること

『獣になれない私たち』1・2話感想

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男受けしない服装を見て、「なんの目的で男受けしない服を着るのか」と呟く男と「好きだからその格好をするのではないか」と答える女のシーンを見て、僕はなぜか野矢茂樹他我問題を思い出した。

「お母さん、これがシクシク痛いって感じなの? お母さんがシクシク痛いときも、こういう感じなの?」

「お母さんがシクシク痛いときって、どんな感じなの?」

「お母さんがシクシク痛いときはね、それはね、シクシク痛い感じがするの」

さらに2話目で、この物語はそんな「他人の痛み」問題、言い方を少し変えれば「解像度の差による苦しみの違い」という問題を取り扱っているように思った。

どういうことか。

人によって世界を捉える解像度は異なる。

例えば新垣結衣演じる晶は、気遣いができてしまうゆえ自分にばかり仕事が集中してしまうが、これはその仕事に関する解像度が高いからだ。

しかし、新入社員の上野は、仕事の出来なさに苦しみを感じている。黒木華演じる朱里にも同様に社会復帰できない苛立ちがある。彼らにとって仕事とは複雑怪奇なもの、立ちはだかる壁のように見えているのだろう。それはその仕事に対する解像度が低いからなのだ。

解像度の高低はすなわちわからなさでもある。粗い写真を見た時、そこに何が写っているのか分からないように、仕事で何から手をつければいいのか分からない人がいる。

だから、たとえば朱里は京谷(田中圭)との関係においては「あなたが仕事を辞めろと言った。次の仕事が見つかるまで家にいていいと言った。だから、仕事が見つかっていないこの家に私はいていい」と非常にクリアーな理解ができている。二人の関係性は、朱里にとっては明らかなものなのだ。一方で、自分が仕事を辞めたのは他人のせいだが、京谷から晶の仕事が忙しいと聞いた際には「辞めればいいのに」と簡単に言ってしまう。自分から離れた関係性に、あえて解像度を下げ、鈍感になろうとしているのではないか。

あるいは勝俣(八嶋智人)は、家族と会社を守る責任があると言い張って、粉飾決算を正当化する。これは、対家族、対会社についての関係性はクリアー(何をおいても大切で、残し守らないといけないもの)であるものの、粉飾決算をすることへのリスクに対する解像度は粗い。あえて粗く、あえて目を瞑っているのだろう。

 

「解像度」は、この物語で言うところの「理性」=「獣でない人間」に与えられた物差しでもある。

向こうに丘陵が見える。これも世界の眺望であるが、背中がかゆかったり頭が痛かったりする、こうした感覚の現われもまた、世界の眺望である。そして、背中のかゆみや頭痛は、何か身体にその原因があるものと考えられる。そこで、目や耳の位置だけでなく、さらにさまざまな身体状態も合わせて「眺望点」と呼ぶことにしよう。そして、目や耳の位置といった知覚の眺望店を身体状態に対して「視点位置」と呼ぶことにし、「眺望点」の内に「視点位置」と「身体状態」とを区別することにする。そのとき、知覚と感覚 よりなる世界の眺めは視点位置と身体状態を含んだ眺望点に応じて変化する。そして、そこにおいてわれわれは「あの眺望点に立てば、誰でもその眺望が得られる」という了解をもつ。

 野矢茂樹からの再びの引用となるが、仕事のできるできないにかかわらず、人間は理性、考える力でもって相手の立場を想像することができる。こうした道具を持つものがつまり人間なのである。

一方、「人間は進化の過程でいろいろな能力を失い、考える力が増すほど直感が鈍くなった」と松田龍平演じる恒星のセリフにあった。

この「直感」は解像度とは異なるものであり、作中においては、それを象徴する者として、菊池亜希子演じる呉羽がいる。

彼女には解像度ゆえの悩みはない。なぜならば彼女は「獣」(=「野生児」)であるので、解像度ではなく、直感を重んじるからである。そのため、鐘をわざわざ見に行く二人をバカらしいと一蹴するのである。 

しかし、かといって、晶と呉羽を対比させるのが正解かと言えば、そうではないだろう。2話目において明かされた晶と京谷のなれそめは、特に送別会後の二人の密会を取り上げれば獣的であった。あのシーンに「鐘の音」が鳴っていないとは思えない。 

また、これから恒星にも獣的な部分が表されることが予想されるが、名前が「恒星」、位置を変えることのない存在を名付けられていることが何かを象徴しているのかもしれない、などと勝手に勘繰ってしまうが、それはこれからの楽しみである。

 

思えば『逃げるは恥だが役に立つ』において我々は、家事を完璧にこなすみくりと応用情報とデータベーススペシャリストの資格を持つ平匡が、それぞれ就職活動や恋愛という異なるフィールドではまったく自信のない側面を持つという、一人の人間が異なるパースペクティブを持っていることにすでに触れていた。

社会に存在する一人一人の人間に、さらに複数の側面があり、それぞれに異なる眺望点からこの世界を見て、社会の中を自由なプレイヤーとして動いている。

その躍動を感じつつ、これから先、どのように物語が進んでいくのかを楽しみにしている。

たとえば、匂いを嗅ぐ男の存在。彼をどう捉えればいいのだろうか。

山内圭哉演じる社長の九十九もどうなっていくのか。「あわわ、あわわってサトウキビ畑になってもうて、聞いてるこっちがざわわ、ざわわや」には爆笑した。 

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