Nu blog

いつも考えていること

日記

柴田聡子のライブに行った。inFIRE、つまりバンドセットの柴田聡子を見るのは、三年ぶり。めちゃくちゃかっこよかった。まさかアンコールで「しばたさとこ島」を全部弾き語るとは……。

いまさらながら「ようこそ」の「ひとりぼっちのふりしてたけど そんなことはただの一度もなかったんだけど」という歌詞に驚愕。いままでの「ひとりぼっち」というライブ名を食ったような歌詞だから。

しかもその歌詞の前に「言ってなかったけどこちら 一緒に暮らしている人」という紹介が入る。

むろん、この歌詞が柴田聡子その人の何かを書いているのではないことは承知しているのだが、だからこそなんだか何が起きているのかわからない歌詞でめんくらう。

そして「24秒」は、柴田聡子はバスケが好きだから、24秒ルールから来ているんじゃないかという指摘を妻に受けた。

バスケに関心のない私には思いつきようがない視点。

マジでそうだと思う。「ただ時計の針を泣いて見つめるだけじゃ 止まらないよ時は ただ去っていくだけ」という歌詞などにもつながる。大発見。

 

全国の楕円球を愛する皆さん。ついにリーグワン初年度のグランドフィナーレ、決勝戦が国立競技場で行われましたね。結果から言えば埼玉ワイルドナイツの勝利。東京サンゴリアスは6点差、つまりワントライワンゴールで逆転できたが、ならなかった。

勝利をもぎ取った主役はワイルドナイツの山沢選手。前半終了間際、ダミアン・マッケンジーの決定的なラインブレイクに追いすがり、インゴールでのノックオンを誘った。さらに、今季絶好調の尾崎選手を捕まえて、試合を終わらせるジャッカルも決めた。

ファンタジスタと称される攻撃的スタンドオフのイメージが強く、ディフェンスの評価はさほど高くなかった山沢選手が、ディフェンスで魅せた。

キック合戦でも後手に回ることなく冷静な処理を見せ続けた。ソロのバイオリニストがコンマスへと変身した姿を見たように思う。

サンゴリアスに綻びや重なるミスがあったとは言い難い。インターセプトを警戒した短い繋ぎも機能していた。いつものアタッキングラグビーであれば、点取合戦となり、全く違った結果が生まれていたかもしれない。それはあるいは大敗ということもあり得たから、サンゴリアスの戦術はやはり正解だったのだろう。

ものすごく細かい場面での、僅かな差が勝敗を決めたと思う。サンゴリアスは球際での攻防で、ミスはなくとも0.1秒単位での遅れがあった。あるいはワイルドナイツに遅らされた。そうした小さな精度の差が、勝敗という大きな差につながった。

お互いのベストを尽くし、素晴らしいゲームを作り上げた両チームを称えたい。

3位決定戦はブレイブルーパスが先制し、リードしていたが、流れを掴んだスピアーズが一気に逆転、試合をものにした。

勝戦と異なる粗いムードが、ラグビーボールをあっちこっちに跳ねさせた胸躍る一戦であった。

復活のブレイブルーパスと上り調子のスピアーズ。来季はどうなる。早くも楽しみである。

ディビジョン1と2の間では初年度から早速入替えが起きた。シャイニングアークスが落ち、ダイナボアーズが昇格。2戦連勝、文句なし。

安江選手のジャッカル、キック、スクラムと、八面六臂の活躍には感動した。人間はあんなに動けるのか、という圧倒的なものを見せられた感動。

シャイニングアークスはレイドローやフォラウを擁しておきながら(しかも2戦目はファラウをセンターに持ってきた。かなり大胆で、なりふり構わない配置)、収穫のないシーズンとなった。

ファラウは期待の1/3程度しかボールタッチできなかった。それはダイナボアーズのディフェンスがよかったからか? いや、チームとしての士気や意思統一の問題であるように思う。飯沼の健闘虚しく、というところ。

NTTさんには、リーグの冠スポンサーとして、今後もよろしくお願いしたいので、傘下のチームがどうなるかわからないが、がんばってほしい。

そして、日本代表が発表された。NDSというサブチームも用意された大所帯。2チーム用意したのは、来年のW杯に向けたセレクション激化の意味合いもあるだろうが、コロナ対策も想定されているのかな、と勝手に思う。

我らが(!)山沢は日本代表入りを果たした。が、SOは他に中尾と李がいる。

特に中尾は的確なエリアマネジメントを遂行できるクレバーな選手で、ジェイミー・ジョセフ監督はこちらの方がお好きではなかろうか。戦略遂行能力といった点では山沢を上回っているだろう。

であれば、ダブルSOというチョイスもある。ディラン・ライリーをアウトサイドセンターに配置すれば安心感もある。

とにかく、頼むから山沢を使ってください、JJ!

6月中旬には早速代表選。ラグビー、楽しいぞ!

 

チョン・セラン(斎藤真理子訳)『シソンから、』(亜紀書房、2022)を読んだ。

斎藤真理子先生の訳かつ亜紀書房からの本なので、間違いなく面白いに決まっている。さらにチョン・セランは『保健室のアン・ウニョン先生』や『声をあげます』も良かったので、輪をかけて期待値の上がった一冊。果たして。

果たして、見事に期待を上回る一作。

読んでいる間、こんなに楽しく、かつ様々に思いを巡らせる作品というのは、そう多くない。『百年の孤独』や『細雪』などと並べて遜色ない、いや余りある名作。なーんて、貧弱な読書遍歴の感想かもしれませんね。

しかし、人に「最近のおすすめは誰ですか?」と聞かれたら(聞かれたいな)、「チョン・セラン、あるいは斎藤真理子、あるいは亜紀書房」と答えたい。

朝鮮戦争の中で家族を殺され、海外に渡り第二の人生を切り開き、さらに男性芸術家からの暴力の犠牲になりながらも生き延びて、韓国に戻り、ユーモアあふれる大量の仕事をした女性、シム・シソン。

二度の結婚と四人の子供、その四人の子供らがシム・シソンの命日に、ハワイで祭祀をおこなうというお話し。

ちなみに祭祀というのは、本来なかなかにややこしい儀式らしく、その上男性しか行えないものらしいが、本作では長女が取り仕切り、伝統的な料理を用意するのではなく、ハワイで過ごした中で嬉しかった瞬間、印象深い瞬間を集めて披露する。

家族一人一人がハワイで過ごし、シム・シソンとのつながりや自身の人生を浮かび上がらせる、という構造、仕掛け。うーん、見事。

後書きで斎藤真理子先生は、シム・シソンのことを「あえていうなら、(…)瀬戸内寂聴に似ているかもしれない」と書いていらっしゃるが、私はどうしてだろうか、上野千鶴子さんを思い浮かべながら読んでいた。

各章の冒頭に置かれるシム・シソンの文章や座談会での発言は、どこか上野先生(先生と呼ぶような関係ではなく、ただの一読者ですが、敬称としてこう記載する)を思わせるような、温かみと冷徹さ、毒とユーモア、鋭さと重さを感じるのだ。

何年か前、私が国際的に女を武器にして今の位置にたどりついただけとでたらめを書いた新聞社の論説委員がどうなったか、思い出させてあげたい。私は有能な弁護士の助けを得てそいつの何年か分の稼ぎをぶんどり、好きな絵を一枚買ったのである。ーー『忘れたことを聞かないでください』(一九八八年)(p15)

司会者 では先生は、三人のうちどの方をいちばん愛していらしたんですか?

シム・シソン マティアスは師であって恋人ではなかったですね。それより、何で私に三人しかいなかったと思ってるんですか?

(一同、笑)

シム・シソン とにかく、死んだ人たちが土の中で聞いてると思うから言いませんよ。

司会者 それでは質問をちょっと変えますね。結婚の成功に欠かせない要素は何だとお考えになりますか?

シム・シソン 暴力性や人格の歪みのない相手との、いいセックス。

(一同、笑いとざわめき)

シム・シソン どうしたの? おばあちゃんがセックスって言ったらおかしい?

『女性○○』主催茶話会録音記録(二〇〇三年)(p20)

二十年後に、自分でも驚くような次の段階にぶつかるようなことになったら、今日この日のことを思い出してください。私の拙い言葉ではなく、今ここに一緒にいる仲間たちを思い出し、その成就を互いに認めてあげてください。花火のような喜びを感じてください。

○○大学美術学部卒業式祝辞録画(一九九五年)

そのほかにも

テレビ討論「二十一世紀を予想する」(一九九九年)

○○芸術大学特別招請講演(一九九六年)

『園芸と○○』(一九八四年)

『なぜか最後に残った人』(二〇〇二年)

『もう通り過ぎた分かれ道』(一九九一年)

『愛は何の関係もなかった』(二〇〇〇年)

『失ったものたちと得たものたち』(一九九三年)

コルネリウス通りにて』(一九八六年)

といったものからの引用がなされる。

ありそうな感じのタイトルと年月設定。シム・シソンが本当にいたらいいのに、という気持ちにさせられる。

これらの文章は、1920年代前後に活躍した女性作家をイメージしたものらしいが、その作家らは自分の生き方を貫こうとし誹謗中傷に晒され、それぞれ失意の中亡くなっていったという。

あり得たかもしれない人生を、このようにポップに、底抜けに明るく、優しく描き出せるチョン・セランの手腕たるや。

ちなみに、『園芸と○○』というのを見た時に、上野先生も『おしゃれ工房』という雑誌で少し湿っぽいエッセイを書いていたなと思ったりした。余談。

不在であるはずのシム・シソンの存在が、輪郭を埋めるように描かれる。どんどん忘れていってしまう20世紀と次から次へとやってくる21世紀をつなげると、そこにシム・シソンという一人の人が生きてきたことが浮かび上がってくる。

三人の娘と一人の息子。その中でも実子ではないホン・キョンアはさらに次の世代を射程に入れながら厳しい広告業界をなんとか渡り歩いている。

キョンアが今も働いていられるのは、実際上は偽の希望に近いのだった。「偽の」というと露骨に否定的な語彙みたいなので、心の中では「ほぼ希望」と呼んでいる。業界の「ほぼ希望」になりたかった。本物の希望が現れる前のピンチヒッターみたいな希望に。レッドオーシャン業界で、そこそこの資質しかなくても長期間頑張った女がいるということを見せてやれば、後から来る人たちの力にもなるだろうと思うから。(p276)

長女イ・ミョンヘは祭祀を提案し、次女シム・ミョンウンは姓をシムに変えた。一人息子の妻、キム・ナンジョンは本に囲まれて暮らし、義母シム・シソンとの思い出を大切にしている。孫たちもそれぞれにシム・シソンとつながる。DJのパク・ジス、サーフィンに挑戦するイ・ウユン、鳥を守りたいチョン・ヘリムらが悩みながらもやりたいことをやろうとする姿には「希望」しか感じない。

ちなみに、一人息子のイ・ミョンジュンは皆から軽く扱われ、妻にも「壁」扱いされたりしている。男性の存在が軽く書かれているわけではない。ただ、頼りなく、呆然とそこにいる。それで十分に存在しているとも言える。

たとえば、長女の夫、パク・テホは自身のことを「このスリリングな家にぴったりの地味な背景程度の存在」(p286)と評している。そのうえでなんとか祭祀では皆から褒められようと美味しいドーナツを熱々のまま持ってこようと頑張る姿は素敵だ。

唯一孫の中で男であるチョン・キュリムはジスから「口ごもり記号」(……のこと)と言われているが、男女交えた友人関係に真摯に悩んでいる一人の人間として描かれてもいる。

なお、最後の男、三女の夫は留守番役! 思わず笑ってしまう設定である。

終盤、ファスというシソンの長女の長女であり、会社でアシッド・アタックの被害にあった登場人物が両親(つまりシソンの長女とその夫)から孫の話をされた際の会話が印象的だ。

「産まないから」

ファスがとうとう言ってしまった。しばらくぷっつりと言葉が途絶えた。

「……人が人に塩酸をかけるような世界に、生まれておいでなんてとても言えないですよ」

ジスは、ファスが「男が女に」を「人が人に」と一般化させたことが一瞬、不満だった。

(…略…)

「最近の女性たちが子供を産まないことを、経済的理由だけでは説明できないでしょ。空気が痛すぎて産めないのよ。自分がされたことを自分の子供もされたらって想像するだけで耐えられない。一人じゃ守ってやれないことがわかっているから。韓国は、空気がひりひり痛いのよ」

(…略…)

「あんたに産めないなら誰が産める?」

「私より傷ついてない人。私より世の中が辛くない人が。ニュースをさーっと通過できる人が」

(…略…)

「終わるのねえ、このすばらしい家系も」

(…略…)

「でも、寂しさを相続させずにすむともいえるんだよね」

ファスがつぶやくと、ウユンがそれを理解したかのようにうなずいた」

「それはそれでいんと思う」

省略した部分も伝わったんだなと思って、ファスは安堵した。(p336−338)

家系の物語のように見えて、そうではない。個人と社会を描いた物語。強くリコメンドする。

 

BSプレミアムでやっていた河野裕子永田和宏の物語がよかった。

河野裕子役は藤野涼子

藤野涼子は見るたびに全く違う人に見える。

俳優だから当たり前かもしれないが、表情や仕草の筋肉の使い方から役によって分けて演じているような、そこまでの違いを感じる。

河野裕子役の品よく、かわいらしく、しかし揺れ動く、そして何か得体の知れない芯の強さをすべてないまぜにした演技。恐ろしい。

河野裕子永田和宏の短歌もいいなと思って読み始めた。かっこいい。

 

「群像」2022年1月号に掲載されていた高瀬隼子の「おいしいご飯が食べられますように」を読んだ。

今、単行本が話題であるが、その理由はよくわかる。

津村記久子の「アレグリアとは仕事ができない」や伊藤朱里の「きみはだれかのどうでもいい人」などと比較して読むのがよいように思う。

この社会、そしてその中心である職場における「弱い人」をどう扱えばいいのかという「普通」の人の苛立ちについて。

病弱であることが職場に認められていれば、早退も突然のおやすみも許されるが、その分の仕事を誰かがやらなくちゃならず、しかしその人の体調不良は紛れもない真実で、というようなことを巧みに描き出す。

仕事がクソ忙しい中、一体全体どうやって「ちゃんとしたもの」を食べればいいのか、という生活の基本が外注される社会。言葉にならない、いや、言葉にしてはならない苛立ち。

思い当たる節しかない。毎日コンビニ弁当を買っていたりすると、謎の罪悪感というのがないだろうか。僕はある。一週間に何回かは疲れていても何か作りましょうね、というプレッシャーが、誰に言われたわけでもないのに、ある。

弱い人は、早く帰れるから、家で味噌汁を作れる。うううううむ。

〈お仕事お疲れ様です。こんな時間まで大変ですけど、お味噌汁とか、なるべくちゃんとした、体にいいものを食べてくださいね!〉

(中略)

ちゃんとしたご飯を食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十一時や二十二時にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、ほんとうに自分を大切にするってことか。野菜を切って肉と一緒にだし汁で煮るだけでいいと言われても、おれはそんなものは食べたくないし、それだけじゃ満たされないし、そうすると米や麺も必要で、鍋と、丼と、茶碗と、コップと、箸と、包丁とまな板を、最低でも洗わなきゃいけなくなる。作って食べて洗って、なんてしてたらあっという間に一時間が経つ。帰って寝るまで、残された時間は二時間もない。そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、俺が生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるのだろう。

引用を打ちながら、打鍵が強くなってしまった。この気持ち、わかってわかって悲しくなる。健康のためなら死ねる、なんて冗談が冗談にならない場面。

ラストに添えられた「わたし、毎日、おいしいごはん作りますね」という笑顔の底なしの恐ろしさ。なんだか、嫌な気分で終わらせることにかけてこんな天才な人がいたとは(褒め言葉)。

 

なんか他にも書きたいことがあった気がするがずいぶん長くなったのでこのあたりにする。7000字弱。お疲れ様でした。