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いつも考えていること

本谷有希子『あなたにオススメの』

本谷有希子『あなたにオススメの』はなんだか毎日に苛立っている皆様に送るディストピア小説集である。

体内にマイクロチップや電子機器を埋め込み、常にオンラインで繋がることが普通の社会を描く近未来SF「推子のデフォルト」と高層マンションの最上階に住み、「下」を見ることを生き甲斐にする主人公による台風の来たある一日を映し出す「マイイベント」という二つの中編が収められている。

「推子のデフォルト」の語り部・推子は物語の途中五分ネットに繋がっていない状態になっただけで禁断症状のように体がソワソワし、脈が乱れ、口の中が乾き、シャツの脇が汗で湿ってしまう。行列に並ぶ間も頭の中にコンテンツを流し込み、とにかく思考を停止する。頭に少しの隙間でもできたら不安が増大してしまうのだ。

しかし、と思う。こうやって物語の語り手として様々に描写するのは、推子の頭に「語る」という隙間があるのではないのか、と。そうなのである。それゆえ卒園式で人々が立方体に見え、頭の中の声が増殖する油断に見舞われる。

本当に頭の中がコンテンツに塗れたならば、もはや語り手すら存在し得ない。コンテンツとコンテンツの間を揺蕩う存在に、物語は存在しない。

だから、「だって文学や映画なんかを迂闊に与えて、物事を深く考える子になったらどうするの? この時代に人生の意味なんて考え始めたら自殺するしかなくなるじゃない」とこぴくんママは呻く。

近未来に到達せずともすでに我々はコンテンツの合間を縫うように生きている。「物事を深く考える」ような頭の隙間はほとんどない。「5分で分かる」が「2分で分かる」に短縮されつつある動画世代、ポイントが太字にされたビジネス書を読み捨て、サブスクのリコメンドを垂れ流すだけ。フローばかりでストックのない社会。物語ほど「ええ愛(AIのこと)」が発達していなくとも、スマートフォンの隆盛とともに私たちは「暇を感じること」を禁じられたかのようにコンテンツ消費のスピードを早めている。

暇や退屈はとても重要なことだと哲学は言う(國分功一郎、キングスウェルを読め)。しかしその哲学に言葉を傾ける暇がない。

この物語もそうだ。すでにオンライン漬けの人はこの小説にリーチする術がないのではないか。たとえ電子書籍だとしても、小説は自ら読み進め、理解・咀嚼する能動性でもって駆動するコンテンツである。非効率的なコンテンツ。垂れ流しに浸る存在はこの小説に辿り着けない。なんという皮肉…。

しかし何が人間らしさなのか、この本を読んでほくそ笑む人も電子機器を埋め込めば変わってしまうのかもしれない。そればかりでなく、冒頭のシーン、こぴくんの「子供らしさ」を表す描写は見逃せない。「のろのろ動くもの」としてみんな「かたつむり」を描くが、こぴくんだけは「老人らしきもの」を描くのである。のろのろ動くものとして老人を描くことを「独創性」と言い切ってしまって良いのか。人間らしさと称されるものと表裏一体にある「残虐さ」を感じずにはいられない。

オフラインを売りにする郊外の学園や、子供たちの一人称が「オレラ」になっていること、サラリーマンゲームに興じる夫など、色々小ネタも突っ込みたくなるのもこの小説の魅力。

「マイイベント」もまた強烈。すべてのディザスターをコンテンツ化し安全な場所から楽しむこと。単に自然災害だけでなく、貧困や公害、格差、病気、そういったものもすべてディザスターであり、残念ながら人々の笑いや癒しのタネになっている。

そう、我々は人の不幸を心待ちにして生きている。これは「誤解を恐れず」とかではなく、言葉のままそうなのだ。見に覚えがない人もいるだろうけど、そちらの方が性質が悪い。しかし露悪的であることが良いとは決して言わない。

主人公・渇幸は常に他人の品評をしている。そして「結局、僕らだけが自分の人生をちゃんと生きてるってことなんだよなあ」と言う。

他人のことは馬鹿に見える。渇幸は妻も息子も、義母も、下層階の住民や、近隣の商業施設に来る人も、全て他人を馬鹿だと思っている。これもまた実際で、他人を馬鹿と思わないと、こんな世の中で正気を保っていられないのも分かる。しかしそれでも他人が馬鹿ではないことをあらためて自覚しなければ、わけわからないことになりますよ、というのがこの物語の教訓か。教訓を引き出す必要性はないが、否応なく身につまされる話なのである。

ただ、低層階とはいえマンションを購入している世帯に、貧困のイメージを重ね合わせられるかは疑わしい。家を買えない人、住むところのない人など、さらに「下層」がいることを隠蔽しているように感じなくはない。

また後半、ウサギを投げ捨てたあたりからやや関心を失ったのはなぜだろうか。露悪さが姑息さへと変わる瞬間、物語に推進力がなくなったような気がする。