「蝿の王」ばり、ひさびさに読んでて辛くてしんどくなる小説だった。
東京大学の学生による強制わいせつ事件にまつわる物語。
昨年末、東大で開かれたブックトークがかなり話題になった。その時に図書館で予約して、ようやく借りれた次第。
ブックトークは小説中の描写と現実に存在するものとの乖離や、実際の事件と現実の東大生の関係等、小説をはなれた話題が展開され、当初意図していた議論になったのかどうか、わからない感じはある。
当然のことながら、「ある東大生が事件を起こした」からといって、「全ての東大生が犯罪者予備軍である」ということはない。痴漢および痴漢冤罪において「痴漢する男性がいる」からといって「全ての男性が痴漢する」わけではない。「東大生」「男性」という記号に属する側の人間が、過敏に反応してしまうのも分からなくはないが、冷静さを欠いている印象。
また、瑣末な差異が小説の決定的な欠点となっているかといえば、それはない。小説としての欠点があるとすれば、ドキュメンタリーではないはずなのに、文体やところどころ挟まれる考察めいたものがドキュメンタリー調なため、「小説ではない」感に引きずられてしまう点だろうか。
しかし、事件の原因である「エリートが持つ感情を塞ぐ技術」、そして「日本社会にはびこる女性の自己肯定感を低めるすべて」について描くことには、成功していると言えるだろう。
つばさは感情を見ない技術を体得し過ぎていたし、美咲はその人生のうちで常に自己肯定感を低められていた。
ある意味凡庸な二人である。容姿も、つばさはニキビが多いことを指摘されているし、美咲も際立った美人ではないことが描写される。
そんな凡庸な二人の間に湧いた恋。痺れるような、その美しさである。
そして、美咲の恋心の美しさ。なぜ美咲の恋心が美しく見えるかといえば、美咲がきちんと自分の心の動きを見つめられているからだ。一方つばさは、自分の心とは向き合わず、常に他者の目線を気にし、将来の結婚相手についても打算的なことしか考えていない。だから、我を忘れたような一瞬の恋の間は美しかった。
そのような、事件につながってしまうつばさの人格および人格形成にいたる過程はしっかりと描かれていた。ある部分は、多くの男性に当てはまることであり、ある部分はエリートに当てはまるだろうことであり、特別なことはほとんどなかった。
また、もうひとつの原因である自己肯定感を低められるようなできごともたくさん散りばめられていた。
ボタンのかけ違いのような、一つの間違いがあったわけではない。間違いとも正解とも言えない小さなひとつひとつが積み重なって、事件になった。
小説の大半は、そうした何気ない人生・生活が展開されていくだけである。平穏な日常がいつ崩れるのか、今崩れるのか、そろそろかとどんよりとした気持ちで話を読み進めるのはかなり辛かった。
この物語は、別に東大でなくても、成り立つ。
東大であることで、より主人公の動きに説明がつきやすいということで、たとえば他の大学であっても、そうした優越感を持つ(東大生でもないのに優越感を抱く滑稽な(ということになる))人がいてもおかしくない。
進振がどうとか、寮の広さとか、院進がどうとか、実録ものであれば必要なのだろうけど、これは小説である。別に、東大でなくてもいい。
「エリートの優越感」に対し、つばさの兄は示唆的な存在となっている。司法試験がうまくいかなかった結果、北海道で教職に就く。また、腋臭であったことを指摘されても取り乱さず、同級生に良い医者を教えてもらい手術を受ける。ごくごく自然に自分と向き合えるようになったことがよくわかるエピソードだ。しかし、つばさはそんな兄を見下す。わからないからだ。
最後、示談にする方法を教授に聞いた母親が言われた言葉に読者よりこの事件の重さを突きつけられる。
「息子さんを含む、事件に関わった5人の男子学生の前で、あなたが全裸になって、肛門に割箸を刺して、ドライヤーで性器に熱風を当てて見せるから示談にして、とお申し出になってみてはいかがですか」
この事件の酷さを端的に表す一言である。そして、そこまでしても何も感じない加害者らの酷さも。
しかし、あの教授の入学式での挨拶はステキだったのだろうか?
あえての描写なのだろうなと思うが、結局のところ「偏差値が低い学校なりに、人に後ろ指を刺されないような女性になれ(箸はちゃんと持て、電車内で化粧するな、現代人は昭和の人からマイナス十二歳だ云々)」という内容で、美咲や同級生らは感銘を受けた様子だったが、私としてみればなんとも時代錯誤な嫁入り論だなあ・・・と感じた。
ちなみに、書名で検索したら大食い王決定戦などで著名な菅原さんの感想にぶち当たった。冷静で、優しさのある感想に感服した。