金原ひとみの『アンソーシャル・ディスタンス』は、人間の惨めさ、哀れさを一身に引き受ける人たちの小説だ。私たちの多くが、上手に目を逸らしたり、あるいは圧倒的に鈍感に生きることでやり過ごしている人間の惨めさ、哀れさを、事もなげに突きつけてしまう。
その突きつけ方のエグさがたまらない。物語に出てくる人々は皆自らの哀れさや惨めさを直視しない。明らかな哀れさや惨めさが目の前にあるというのに、現実の私たちと同様に、社会とか、他人とか、自分とか、そういう訳のわからない濁流に呑み込まれていることを言い訳に、はっきりと感じているそれらをどうにもしない。
年下の男性と付き合うために整形する人。
ストロングゼロを摂取して生活や仕事と格闘する人。
流されるまま不倫しつつも夫に無理矢理犯される人。
希死念慮を持つ彼女と逃避行する人。
辛いものを食べ、かつて撮影した彼氏とのハメ撮り動画でオナニーに没頭することにした人。
皆、自分の身体の重みに押しつぶされそうになりながら、ただもうその身体の感じるままに動くしかない。理屈とか倫理とか理性とか、そういう悠長なことを言ってられる余裕がないのだ。その意味では、自らの悲惨さに直視させられているとも言える。ただやっぱり、どうにもできないことに変わりはないのだが。
後半の2篇「アンソーシャルディスタンス」と「テクノブレイク」はコロナ禍が舞台となっている。コロナ禍において最も叫ばれた言葉「ソーシャルディスタンス」を否定する接頭語をつけた物語において、ひたすらに個人による性と死が語られることに、「まず生き延びる」な現実主義の人々は鼻白むだろう。ソーシャル=社会とディスタンス=距離とは真逆な、個人の性と死。それは最も社会的でなく、ゼロ距離なこと。現実主義な人々のその反応を否定はできないが、しかし、コロナ禍において私たちはまるで一人一人が「社会そのもの」のように取り扱われることに慣れ過ぎてしまったのではないか。むしろ、個人であり、性的であり、死に向かっている存在である、という圧倒的にアンソーシャルな存在であることを忘れすぎてはいないか。
私たちは惨めで哀れな存在であることを、個人として剥き出しの皮膚に焼き付け、一人であることを自覚しなければならない時がある。
コロナ禍が過ぎ去っても、きっと「社会重視」な風潮はすぐには終わらない。しかし、社会的生物として生き延びることを考え続けるのは馬鹿げている。
個として死ぬ。
あなたはこの物語に出てくる人らを狂ってると思うのか。的外れ。こんな狂った世の中で狂ってない方が狂ってる。
ストロングゼロ、強い虚無。コンビニに、スーパーにそれが並び、道端にその空き缶が転がっている。その姿は私たちのようではないか。