小説という形式は、無関心を描いたり、無を描いたりするのに向いてない。もっと平坦で、もっと簡潔で、もっと生気のない筋立てを考え出す必要がある。(p55)

- 作者: ミシェルウエルベック,Michel Houellebecq,中村佳子
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2018/02/06
- メディア: 文庫
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第3部のくだらなさは置いておくが、1部、2部はキレッキレ。これが94年の小説とは思えないし、これを94年に読んでも、その時の読者・私が何歳であろうが、まったく響かなかっただろう。
まるで90年代後半から00年代のすべてを見通したかのような予言の小説ではないだろうか?
今読むのでなければ、何が描かれているのか、クリアーには分からないだろうくらいキレッキレである。
当時、ここまで意識的に、露悪的に、男性原理主義的発想を書いた人はいなかったはずだ。
今という地点から振り返れば、我々はウエルベックに気付かぬまま、インターネット上に展開される匿名の世界で、初めてこの醜悪な発想に触れることになる。
女にモテず、ナイフを持ち、自動車事故で死んだティスランの人生は、2008年の秋葉原無差別殺傷事件を思わせる。15年先を見通す男、ウエルベックの面目躍如、ここにあり。
昨年、私は『服従』の感想として、ウエルベックを「この先20年は重要な作家」と評したが、94年当時も「この先20年は重要」な作家であったことがわかる。
作品を出すたび、「20年」を更新してきたと思うと、恐ろしい作家、いや予言者である。
いや、呪術師かもしれない。
ウエルベックはこの初めての小説から、ずっと「自由って不自由だよね」という近代の古典的矛盾を念仏のように、呪いのようにつぶやき続けてきたのだから。
人生経験が少ないせいで、自分はずっと死なないと、つい考えてしまう。人の命がごくわずかになってしまうなんて、ありそうにない。なにかがそのうち起こると、いやでも考える。とんでもない間違いだ。ある人生が空っぽで短いということは十分ありうる。(p61-62)
平凡なこの独白を、もっと平凡に言えば「ココロのスキマ」とまとめられよう。
「ココロのスキマ」に何を入れるかは人それぞれであるが、多くの男性が「男性原理主義」を当てはめていった(ウエルベック描く男性然り)。少なくない女性がやはり「男性原理主義」を当てはめた(ウエルベック描く女性然り)。また、ある種の人は「宗教」を当てはめた。ある種の人は「狂騒」を当てはめ、ある種の人は「文化」を当てはめた(これらもまたウエルベックは描いている)。しかし、何が「ココロのスキマ」を埋めただろうか? 埋められないと認められないまま、その時その場限り、一瞬を凌ぐための応急処置しかできないのだ。
死ぬことを見つめられない私たちが行き着く先は、それでもやっぱり死なのである。呆気ない、阿呆らしい、死だけ。
さっきの男は死んでいたらしい。夫婦は応急措置の場に居合わせたようだ。女房の方は看護師だった。心臓マッサージをするべきだったのよ、そうすれば助かったかもしれないわ、と話している。さて、どうなのか、僕は素人だから分からない。しかし、もしそうなら、彼女はなぜそれをしなかったのだろう? 僕にはこの種の態度が理解できない。
いずれにせよ僕がそこから引き出す結論は、場合によっては、人はいとも簡単にあの世へ行きうる――あるいは行きそびれる、ということだ。(p84)