Nu blog

いつも考えていること

この八年

三島由紀夫vs全共闘 50年目の真実』を見た。

言葉の生きている世界にひさびさに迷い込んだ、と思えた。三島由紀夫も学生も、現実を表す道具として言葉を絞り出す。たとえば「机」という言葉を一つ発するためにも、実際の机を雑巾のようにぎゅっと絞って、机から「机」という言葉を奪い取ったような感じであった。机から「机」という言葉を剥ぎ取ったよう、と言い換えてもいい。

観念的、理念的に感じる人もいるかもしれない。観念的、理念的過ぎて議論が何を語ろうとしているのかわからなかった、という人もいるだろう。

とても印象的だったことがある。劇場を出た後、二人組の男性が、芥氏の発した「私は国籍のない人間だ」という言葉を「あの人、何人なんだろう」と話していたのだ。その人たちは、芥氏が観念的に「国籍などこの世界にそもそもないのだ」と考えていることを読み取れなかったのである。一方、三島は即座に「僕は国籍をもって、日本人でやっていくことにしたし、そこから抜け出そうとは全然思わない」と返す。よもや「君はじゃあ、何人なんだい?」みたいなことは、夢にも思わなかっただろう。

これはもう、時が経って、言葉の扱われ方、世界との距離が遠く隔たってしまったとしか言いようがないんである。今、あの頃のように言葉をむしり取るように話しても、多くの人は何を言っているかわからない。

交わされる視線と視線。言葉がまっすぐに打ち返される場。知性をどうやれば行動に移せるのか真剣に考えあう人々の熱。討論会の最後の言葉が象徴的だ。

言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい。

ことばが翼を持って飛び回っていた時代があった。

今、言葉は地面を這っている。時には踏みつけられ、ゴミと間違って捨てられたりしている。あまりにも汚いので、トイレで水に流されたり、あるいはビル管理の会社に清掃員は仕事をしていないのか、なんてクレームが入ったりする。

 

話変わって(もちろん繋がっているのだが)、安倍晋三が総理の職を辞することとなった。体調不良を理由とした辞任であるが、なぜか議員辞職はしないという。議員は、妊娠してはならないが、体調不良は許容される仕事らしい。

「おつかれさま」の一言も出ないのか、と会見時の記者を批判していた人がいた。なぜ記者に労われなければならないのかと思う。記者ってそういう存在なんでしょうか。いまいちわからない。そして、そういう人は安倍晋三を評価することで得することがなにかあるのだろうか。わからない。心底良い八年間だったと思う人もいるのだろう。

私に言えることは、安倍晋三は言葉を破壊した人だ、ということ。この人が多用した「まさに」「いわば」といったつなぎの言葉の無意味さにはいつも空々しさに悲しくなった。何かを強調したり、要点を絞ったように見せかけるだけの、空疎な言葉が多用された。

「まさに、その通りであります」「いわば、その意味において、問題はないわけであります」「ご指摘はまったく当たりません」という言葉に何の意味があっただろう。

この八年間で日本社会は、その言葉に意味があると思うようになった。そのことが虚しい。

言葉は地を這い、踏みつけられている。言葉が意味を呼ばず、熱情も殺し、信じるものなど何もなくなった。

後任に選ばれた新首相・菅氏はそうした空虚な言葉を流通させた筆頭主である。「その指摘は当たらない」などという返答は、会話とか論理、意味、そういった大切なことを殺して、うっちゃった。

 

また話変わって(むろん繋がっているが)、東浩紀の『一般意志2.0』を読んだ。大胆に「新たな社会・政治」の形を提言していた。

イデオロギーはプライベートなものとし、公的な熟議の場に共的な一般意志2.0を持ち込む。アイデアとして、これほど魅力的なものはない。今存在するバグをアップデートにより乗り越えようとする、当たり前の提案のようにさえ思える。

しかし、これはこの八年間の前に書かれた本だ。

八年間を経て、熟議が失われた今、この提案は虚しいようにも思えなくはない。なぜなら、誰もそれを実現することはないからだ。

東浩紀も強く虚しさを感じているだろう。本書が書かれてから「まさに」八年間が過ぎたのである。その八年間で熟議が死に、デモで何かが動かせるんじゃないかと、古く、有効性の薄い「民主主義」が叫ばれ、その果てがツイッターでの「ハッシュタグ・デモ」だ。何の意味があろうか。それらの言葉は全て捨て去られるだけで、翼を持たないのに。

それらの言葉に翼を持たせる「一般意志2.0」が実現するならば、「ハッシュタグ・デモ」にも意味ができる。しかし今、何万ツイートされようが、それは民主主義でも何でもないと私は思う。

 

この虚しさを打ち破りたいと少し熱っぽく思う。

イデオロギーを仕舞って、無意識を反映させられるような戦略を考えるべきだと強く思う。

これを下手に現実に適用させようと浅慮すると、「選挙に行こう」とか「行政へパブコメとかで意見を出そう」とか「インターネットで署名を集めよう」とか、そういう正反対のオチが待っている。

言葉は死んでいる。なのに僕はブログを書いている。嘘ばっかり吐いている? そんなつもりはないのだけれど。

うんうん唸りながら、日々生活していく。