Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(ドトールにて)

徹のラインに「ちょっと教えて!」「統計学A、明日までの課題でわかんないところあって!」「学校いたりしない?」と矢継ぎ早にメッセージが届いた。アイコンと名前の表記で、野々宮さんからのものだとわかった。

三年生になって所属したゼミの同級生らと、徹は思いの外仲良くやれていた。それまでろくに友達のいなかった二年間がウソのようで、人との会話が増えていた。

それでも、こうしたラインでのやり取りには慣れておらず、短文をいくつも送ってくる若者たちに感心してしまう。

「今はドトールで本読んでました。もしよければすぐ行きます。どこにいますか?」と打ってから読み直した。堅い気がした。あと、ドトールといえば正門そばのここしか思い浮かばないが、野々宮さんが別の場所を知っていても困ると思った。「正門を出てすぐのドトールにいるよ。その課題なら終わってるので教えられると思います。どこにいるの?」と修正してみた。「いるよ」だなんて恥ずかしい。さらになぜか思わず入れた「課題が終わってる」アピールが過剰で鼻についた。「正門とこのドトールにいます。課題ちょうどやってたとこ! 一緒にやろう」とさらに直したが、まさかの嘘つきである。とっくに課題は終わらせているから、一緒にやるわけない。わけがわからない。「正門とこのドトールにいます。暇してます。どこにいますか?」と打ち直して、そろそろ返さないと野々宮さんがしびれを切らして別のメッセージでも送ってきそうだと勢いにまかせて送信した。紆余曲折経たが割に当たり障りなくなったと徹は送信後も読み直した。

読んでいた本(いとうせいこう『ワールズ・エンド・ガーデン』)をカバンに入れて、そわそわメッセージを待つ。既読がついてすぐ「ドトール行くよ!」「B号館からだから、ちょっと時間かかるかな」「待っててくださーい」とまたしてもメッセージが重ねられた。徹は「了解」のスタンプを探して送った。まだ一度も使ったことのない、好きなアイドルのスタンプも候補に挙がったが、ありえないと否定した。

しばらくして野々宮さんが来た。店に入って周囲を見渡し、徹に気づくと手を振って来た。徹は面食らった。なんとも、そんな女の子のような仕草を私が体験してしまうとは、など考え赤面したのさえわかった。

野々宮さんは「コーヒー飲む?」と奢ってくれるそぶりを見せたが、徹は浅薄にも断ってしまった。ご厚意を無下に断ってしまったとあたふたしたが、野々宮さんは気にするそぶりなくレジへ行き注文および支払いを済ませ、受け取りなど一連の行為を自然にやってのけた。徹には野々宮さんが年上または人生二週目またはとんでもない金持ちなどに思えた。

品物を携え席へ戻った野々宮さんは袋に入ったクッキーを徹に渡した。「ほい、これ、受け取って」とこれまた自然にくれる。徹は小さな声で「わー、ありがとー」と呟いた。

「さてさて、これがわかんなくて」と野々宮さんの示した問題は一番の丸一からだったので、徹は何から伝えようか迷った。プロの教師による解説が伝わってない以上、徹に何ができるのかと思ったが、とにかく話し出すより他ない。「先週の授業で検定について教わったことは覚えてる?」と話し出すと案外話せた。

そうやって解説してから野々宮さんに課題を解くよう言うと、まったく筆が進まない。どこまでエスコートすればいいかわからないまま、結局答えを言っちゃう。そんなことの繰り返しが三回続いたので、そこから先の五問は解説抜きに徹が答えを言って写してもらうことにした。まったく、徹にとって屈辱的な感じがした。教えるのが下手だと言われているようだった。

とにかくそうやって野々宮さんの課題を終わらせることができた。昼過ぎに始めて、いつの間にかもう夕暮れだった。

 

ゆい子ははじめ、谷中くんの解説を聞きながらうなづいていたもののずっとよくわかっていなかった。統計には興味がなくて、高校からの同級生である美津の付き合いで履修しただけだった。美津がフェードアウトしてからも、単位を落としたくない一心で講義を受けていたが、さっぱりわからないままだった。

谷中くんはゼミの同級生で、とにかく真面目だし頭が良いようにゆい子には思われた。たまに挙動不審なこともあるけれど、ゼミの内外問わずこうやって勉強を教えてくれるのでありがたい存在だと捉えていた。同じゼミに所属するさっちゃんもえりぽんも同じように教えてもらっていると聞く。クッキーぐらいあげておいて、機嫌を損ねられたら大変だ。

課題が終わったので、ゆい子はなんとなく「そういえば最近は何聴いてるの?」と聞いた。谷中くんはいつも何か音楽を聴いていて、えりぽんが、頭を揺らしてノリノリな通学中の谷中くんを目撃している。「なんやら坂っしょ」とえりぽんは断定したがなんの確証もなかった。さっちゃんはなぜか「たぶん、お父さん世代の聞く古いロックに違いない」とこれまた断定的に言っていた。

谷中くんは「えー、うん。あー、最近は」と言い淀んだ。少し考えてからスマホを取り出し、「これ、このバンド」と言ってチラッと見せてくれた。Vampire weekendと書いているのがわかった。「知らないや。外国人?」「うん。えーと、イギリス。音が可愛い」「ふーん、ね、今のってApple Musicってやつ?」「違う。でもストリーミングサービスだから同じようなもので、えっと、グーグルがやってるやつ」「そうなんだ。ラインミュージックやってたけど、結局あんま聞かないからやめちゃったんだよね」「YouTubeで無料で聴けたりもするもんね」「そう、それ! あ、この動画見たことある?」

ゆい子がリードする形で、会話はだらだらと続いていった。悪い人じゃないんだよなと時折思った。

 

野々宮さんが「あー、課題も終わったし、なんか眠いよー」と言いながら机に突っ伏した。長い髪の毛が机に覆いかぶさった。触ってみたいと思った自分に徹は緊張した。高校の同級生と痴漢冤罪について話したことを思い出した。電車通学だから、痴漢冤罪に気をつけないといけないと事あるごとに熱弁を奮っているやつだった。今何してるんだろうか、まったく知らない。なぜ、あんな痴漢冤罪を恐れていたのかもわからない。

徹も「確かに眠いねえ」と言って机に突っ伏してみた。すると野々宮さんが頭を動かして顔を横に向けたので、髪の毛の匂いが徹の鼻をかすめた。しばらくそうやって突っ伏しながらだるいね、そうだねみたいな会話をしていた。野々宮さんが顔を上げてうーんとかふわーとか言っている間も徹は突っ伏したままだった。

 

谷中くんはそのまま眠ってしまったようだった。ゆい子は谷中くんのワックス等整髪剤をつけていないさらっとした髪の毛を眺めた。じっと眺めていると一本、白髪が見えた。それでゆい子は白髪を抜こうと思った。父親が、白髪は抜かれても痛くないんだと言っていたから、起きないだろうと思った。慎重に周囲の毛をどかし、その一本を手にとってふいっと指先に力を込めて抜いた。

 

痛いと思ったわけではなかった。触られた気配で起きた。「あれ、僕寝てた」と野々宮さんに聞くと「うん、寝てたよ」と返事があった。「わかんないけど、なんかしてた?」とも聞いたら「ううん」と笑いながら言った。「ね、もっかい同じ姿勢になってよ」と言われたので、言われるがままに机に伏した。すると髪の毛を触られた。「どうしたの?」とその姿勢のまま聞くと「白髪があったんだよね」と言う。そうか、さっきは白髪を抜かれたのかと思う。嫌な感じはしないな、と思って徹はなすがままに同じ姿勢でいた。「あ、あった」と喜色溢れる声で白髪を見つけ、ぷちっと抜く。何度か頭に息がかかって、徹は背筋がぞわっとした。そのゾワゾワは嫌なゾワゾワではなく、いやらしい感じのちょっと気持ちいいゾワゾワだった。ああ、性欲が頭をもたげているな、と徹はぼんやり思った。

 

ドトールを出ると、六限目を終えた学生らが正門から出てきていた。日は暮れていた。

駅について、二人は反対方向だったので「じゃ、また明日統計学Aで」と言って別れた。

それから先、二人で会うことも遊ぶこともない、ということをゆい子はうっすら予感していたし、その予感は正解となる。大学卒業後五年ほどメーカーの事務をし、七歳年上の品質管理部の佐藤大河と結婚、一男一女をもうけ子育てに専念、夫七十歳の誕生日、定年の日に脇見運転していた乗用車にはねられうららかな秋の日に六十三歳で亡くなるのだが、その時は何度も「まあ、悪い人じゃないんだよな」と思うばかりだった。

徹は二人で会うことがないなどとはうっすらも思っていなかった。大学卒業後、就職浪人をして証券会社に入社、二年でメンタルにより休職と復帰を繰り返すも退職、三年ほど引きこもるものの叔父の紹介で地元農協でアルバイトを始め、五年間のアルバイトの後、正社員になり十年勤めるがある暑い日、太陽の眩しさに何もかも嫌気がさして自殺。四十三歳で生涯を終えるのだが、その日は帰ったら家族にバレないようひっそり自慰をしようということをほんのり確信していただけだった。

そして明日、カバンの中からバキバキに割れたクッキーが出てくるのだが、それはすぐに忘れ去られる出来事である。