Nu blog

いつも考えていること

ダサさ

フジロックを辞退した折坂悠太のこととか、パラリンピックの片翼の飛行機のメタファーとか。アフガニスタン情勢とか、自国の兵隊が殺されたら敵国の一般市民含めてドローンで空爆するアメリカのメンタリティとか、自国民退避のみできた日本の外務省のこと。あるいは、ワクチンに異物が混入していたり、ワクチン接種後に30代の人が亡くなったことなど、日々思うことはあるのだけれど、上野千鶴子鈴木涼美の往復書簡本「限界から始まる」を読んだことなら書きたい。その他のことも書きたいのだけど、言葉がない。

鈴木涼美が被害者になりたくないのだとこぼすと、上野千鶴子が被害者になることの強さを指し示す展開には痺れた。鈴木涼美より年齢が少し下だが、「被害者であることを恐れない」世代よりは上という点で、鈴木涼美の気持ちがよく分かる。被害者であることのバカバカしさというか、そんなことを言ってる暇はないよ、というような焦燥感みたいなものがある。ネオリベラリズムを内面化した世代の心象風景。往復書簡はすれ違ったりかすったりを繰り返しながら、最終的には鈴木涼美が「構造そのものを疑ったり批判しつつも、個人としてとりあえず今傷つかないように振る舞う、というバランスの良さを求めたい」という結論に着地していく。全くその通りだ。30代も幾年か経て、個人として利益を得る処世術は身につけたのだから、これからは構造そのものへの異議申し立てをやってかなければならないし、むしろ構造そのものへと化すことへの恐れも抱きながら自省とともに進むことを求めていかなきゃならない。

つまり、冒頭に戻れば、日々思うところに対して言葉が出ないのは、被害者的な振る舞いをしたくないという態度があるからではないかとは思う。折坂氏のあり方に賛成したいし、片翼の飛行機って、暗喩として適切なのだろうか、最終的には飛ばないといけないのだろうかとか思うし、アメリカ含めあらゆる人権侵害を批判したいし、外務省にはそれを表明するような行動をとって欲しかったし、ワクチンのことは何がなんだかわからない、と言いたい。でも、言えない。ダサい気がして。言わない方がダサいと言われるのだろう。しかし、今さら、穴の空いたジーパンが雑誌なんかで紹介されていると、高校生の頃に戻ったみたいでダサいと思ってしまう。でも流行だからカッコよく見えてくる。ただ、自分はできる限りそれは履きたくない。そんな気持ち。