今さらながら高輪ゲートウェイについて考えてみた。
もともと仮称は品川新駅だった。そこから公募され、六万を越す応募の中、高輪ゲートウェイは三六票、一三〇位。一位は高輪、約八千票、二位は芝浦、約四千票。三位は芝浜、約三五〇〇票。
一三〇位ってのがすごい。これが二〇位くらいならまだしも、一三〇だからほえ?ってなる。選考体制をよく知らないのだけど、選んだ人は何位まで見たんだろう。全部見たのか。すごい。当然かも知らんけど、偉い。
私もその人と同じ苦労がしたいから、全部見せてほしい。一票しか入ってない独特のネーミングセンスを見てみたい。いや、まあ、一票のは消してもらってもいいや。一三〇位より上のすべての候補が見てみたい!
ある記事では、そもそもJR東日本は「○○ゲートウェイ」の○○部分を公募したつもりだったのではないか、との指摘もあった。
つまり、お題設定も公募という手法も、どちらもダメダメ、という指摘である。なかなか辛辣ではないか。
能町みね子氏による指摘は複数の論点があるけれども、とりあえず「歴史に紐付いた地名ではない」「横文字がダサい」「こんな名前では百年、二百年後に馬鹿にされる」という批判について、よくよく考えれば、これってどうなんだろう?
むしろ古式ゆかしい言葉出なきゃダメ、百年後に笑われる、という発想も大概ダサいのではないか?
主観的な感想なので、どこがどうダサいのか聞かれたらわからないのだけど、この時代のことを未来の人がダサいと笑うことは、忘れられるよりも余程マシだし、可愛いことだと思う。たぶん未来の人はこの時代のことを「公文書改竄や憲法の解釈改憲、経済的にも成長が見込めない中消費税引き上げを断行するなど、誤った政治判断や倫理観の欠如が頻発したものの、全てを忘れ去ろうとするかのようにオリンピックに沸き上がった現実逃避の時代」だと評するのではないだろうか。駅名のことなんかきっと誰も思い出してはくれない。
そして、流行り言葉や商業的意図で地名になってることなんて、割合結構あるのではないだろうか。
ウィキペディアを見ただけでも、織田信長から一時頂戴して長浜市(一五七三年)にしたり、教育勅語の一節から精華町とか、元号になぞらえた地名はたくさんあるし、豊田市や天理市など組織名から来ちゃってる。
カタカナは別だろうというのはちょっとよくわからない。カタカナと漢字の間になんの差が…?
馴染みの問題でしかないのではないか。青梅・青海問題のようなことが起きないのなら(高輪ゲートウェイと高輪台を間違うことはあるだろうか? もしかするとあるかもしれない)、別になんでもいいんじゃないだろうか。むしろ高輪駅の方が、品川駅の高輪口があるのでややこしいし、避けるべきではないか。
極端な話「い」とかでも、いいと思う。「い」駅、ないよね? あ、でも胃液みたいだからやめた方がいいかも。ま、「つ」以外の一文字なら空いてますね(津駅)。
考えてみたら、結論駅名とかどうでもいいと思ってることが分かった。こんなこと書かなきゃよかった。真剣に抗議してる人たちの思いを汲み取れなくて申し訳ないと思う。でもまあ、どうでもいいと思ったことを記録しておくために、残しておく。黙殺。