Nu blog

いつも考えていること

死刑について

無限回廊」という重大犯罪の詳細をまとめているサイトがあって、高校生で、帰宅部だった私は眠れない夜などにたくさんの事件のあらましをそこで知った。

理解しがたい人間の狂気や死ぬこと、殺されること、服従すること、尊厳を失うことに怖くなって余計に眠れない夜を過ごした。

誰しもウィキペディアで未解決事件とか遭難事故とかを読みふける夜があるでしょう?

 


数多ある事件の中で、連合赤軍オウム真理教によって引き起こされた多数の事件には、不思議なことに恐怖を感じなかった。

むしろ、この社会の基盤に存在する、我々があえて見過ごしている重大な欠陥を突きつけているように思うのだ。

 


オウム真理教連合赤軍、二つの組織に共通するのは(そして他の犯罪にないのは)、彼らが国を作ろうとしたことである。

北九州一家殺害事件や酒鬼薔薇聖斗事件、コンクリ詰め殺人等人を支配しようとする事件はたくさんある。

小さく、閉ざされたコミュニティを形成し、暴力によって人を支配しようとしたそれらの犯罪は、恐ろしいものであるが、人間らしい、野蛮で原初的な欲望だとさえ思う。

だから、それらの事件は虚しい。

人間はそうした欲望を、さまざまな形で発散・昇華し、秩序を保てるよう社会を形作ってきたのではなかったのか、という思いに囚われる。

 


連合赤軍オウム真理教も、最終的にはクローズドな世界に陥ったことは間違いない。閉ざされた世界の中でだけ通用する論理が、殺人を正当化した。

しかし、その道筋を辿れば、両組織はともに理想国家の樹立を目指していた。

共産主義国家と宗教国家、相反するような、背中合わせのような、別々に育った双子のような…。いずれにせよ、この民主主義と資本主義を採用した世界に対峙しようとした。

あるべき世界、社会、人間を思い描くこと。

その行為だけを取り出してみれば、たとえば小学校なんかで考えさせられる、挨拶を促す五七五の標語や、中学校で書かせられた税金の作文など、割と一般的な行為のように思える。

会社でも、本来はこうあるべきだなんてお話はよくあるだろう。

SNS上でのあるべき社会をめぐる論争も絶えることがない。

 


彼らと、そんな一般的な行為の差は何だったのかと考えてみれば、割合明らかで、正しいのだから実現されるべきだと夢見たことである。そして、実現されるに至る道筋が、一本道だと思い込んだことでもある。

これしかないと突き進んだ軍事路線、テロ武装が、殺人へとつながっていった。

 


両組織共に各セクションの長を決め、擬似国家を形成していた。

しかし、それをおままごとだとバカにするなかれ、である。

昨年の大河ドラマ西郷どん」において、明治維新後、大久保利通岩倉具視他参議らが薩摩だ長州だなどと喧嘩しながら日本国を作り上げていった様は、まったく擬似国家でしかなかった。

選挙で選ばれたわけではないから、現代の民主主義の観点からいえば正当性を欠く元武士たちが、戦争に勝ったという一事をもって時の権力を意のままにしていたのである。

当時としては当時の理が彼らにあって、それで政治が行われていたわけだけれど、何かクーデターがあればひっくり返る環境でもあった。

たまたま、針に糸を通すように、さまざまな要因が絡み合って、現代に至っている。だから明治政府の存在は是とされている。マア、「たまたま」なんである。

反対にいえば、何か間違っていれば、オウム真理教連合赤軍に正当性の与えられた世界線もありえなくはないのだ。

 


なんてことを考えるほどにオウム真理教連合赤軍に関心を持っていたにもかかわらず、去年の死刑執行に反応することができなかった。

ショーと化した死刑執行に、言葉が出なかった、つもりだった。

しかし、森達也の『A3』がnoteで無料公開されていたのを読んで、言葉が出ないもクソもないなと思った。

変だ、と言えない自分の考える力を疑ってしまった。

森達也は繰り返し繰り返し、精神鑑定を行うべきだと書く。

これまで新聞やテレビの報道で、思い出したように裁判の様子が報じられるたび、その挙動はすべて詐病のように描写されてきた。あるいは、たとえ精神的に壊れていたのだとしても、死刑にすべきだという前提が揺さぶられることはなかった。

考えてみれば、不明瞭な振る舞いを続ける人間に対して、淡々と裁判が進められていることは異常である…。

「裁かれるべき人間である」という前提だけがこの裁判、この死刑を後押しした。

裁くとは、分けるということ。さまざまなことが未分化のまま終わった裁判に、裁判の本来の意味は見当たらない。

 


そもそも私は死刑制度は廃止すべきだと思っている。

それは冤罪の可能性が云々などという理屈ではなく、単に死刑囚を殺す人がいる辛さをなくしたいからだ。

たとえ百人が一斉にボタンを押して、死刑が執行されるとしても、何も変わるわけではない。

もちろん現在その業務に従事されている方たちには敬意を表したい。

死刑制度反対に対して「あなたの身内が被害にあったら…」という反論がある。

それとこれとは別である、としか言いようがない。

万が一そんなことがあれば、公権力に訴えず、私刑を考えるだろうな、なんて細い腕で思う。

しかし、前半に自分自身で書いた言葉に立ちもどろう。

「閉ざされた世界の中でだけ通用する論理が、殺人を正当化した。」

日本という閉ざされた社会(アメリカだろうがなんだろうが国家はある程度閉ざされた社会である)においてだけ通用する死刑制度である。

殺人を正当化する制度を持つこの社会が、オウム真理教連合赤軍を生み出した、と見立てられないか。

もう一つ自分で書いた言葉がよみがえる。

「相反するような、背中合わせのような、別々に育った双子のような…。」

私はそれらを異質な、まったく別物、関係ないものだとは思えないのである。