Nu blog

いつも考えていること

熊谷守一

初めて熊谷守一を観たのが箱根のポーラ美術館だったのははっきり覚えていて、ポーラ美術館と言えばモネ、ルノアールピカソ、フジタという錚々たる面子を所蔵する美術館だということはご存知かと思うが、箱根に行ったのはあれは何年前だったか、ぼく自身そういった画家の作品に期待していたにもかかわらず、熊谷守一の作品を観た瞬間に「やべえ」とアゴが外れるような、衝撃的にすげえと強く感じ、振り返って思えば、記憶の引き出しの一等良いところ、「大切なもの」を入れるところにポツンとあって、季節ごとにいらないものいるものと仕分けしても彼は残る。
それは、こんな作品。

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1/2、美術館初めに東京国立近代美術館で開催中の熊谷守一展へ。
展覧会は「生きるよろこび」と題されているが、「もっと生きていたい」的発言はあったものの、どこに「生きるよろこび」を見出したのかはいまいち分からんかった。
熊谷守一を誤解している、あるいはあえて誤解している?
分かりやすさや親しみやすさが語られる熊谷守一だが、そんな簡単な絵は一つもない。
そもそも何が分かるのか、何に親しめるのか? と問うてみれば、何が描かれているかが分かりやすいだけなのだ。しかし、近現代の絵画において「描かれたもの」はそこまで重要じゃない。
初期の「轢死」などは何が描かれているのか分からないし、中期の山々の絵は平面すぎて抽象画のようで、描かれたものに限れば「分かりにくい」が、興味関心が光や色彩にあることは「分かりやすい」。

むしろ、何が描かれているか分かりやすいとされる後期の方が、興味関心の行方がはっきりとつかめず、分かりにくいと感じてしまう。

この分かりにくさの元を考えてみたら、熊谷守一には、恐るべきことに、自己表現が、ない、のである。
熊谷守一とは俺だ!!」みたいな、そんなあれがない。
モリカズ様式と言われるほど熊谷守一らしさは認知できるのだが、そうではなく、熊谷守一自身が何を考え、どうしてそのように描いたかが絵から見えてこない。
ルノアールとか見たら、「綺麗やなって思って描いたんやろな」とか「印象派の技法で持って描いたのか」とか「印象派の技法ってのはつまり、光を捉えようとしてるんやね」とかシッタカブッタ感じでふわふわっと安心できるのだが、熊谷守一を見ると「なんやこれ」とアゴが外れそうになるばかりで、蘊蓄一つ語れない。
絵が絵だけで世界に直立して不動。熊谷守一には意図がない、あるいは邪気がない。世界を穿つ腕力のみ。

果たして、豊かな色彩と計算高い構成により、黒目が脳がぐりんぐりんと動く。

黒目が脳がぐりんぐりん動くのです。

kumagai2017.exhn.jp