Nu blog

いつも考えていること

スケッチ(絵)

四郎が亡くなった祖父の家を片していたら、倉庫からその絵が出てきた。

憂鬱な表情が目と口で表された、女性の横顔。上半身は横向きなのに、腕の位置は正面から描かれている。そしてキャンバスは全体に灰色で覆われ、影の部分は黒く、輪郭線が白で描かれているのも特徴的だった。

右下の隅にサインらしい黒い文字が見えたが、四郎にはそれをなんと読むかは分からなかった。

額縁は、シンプル、いや無機質な形をしており、金色に覆われたその四角の枠は重厚に見えたし、実際重かった。

額縁の裏側に紐が垂れていた。かつてはどこかにかけられていたのだろうか。四郎は、祖父の家にそんなスペースがあったようには思えなかった。

埃っぽい倉庫、陽の当たらない場所で、四郎にはその絵が美しく思われた。綺麗な絵ではなかった。少年誌に載っているグラビアアイドルの肌にドギマギした時とは違っていた。綺麗でないものを美しいと思ったことが、四郎にはとにかく不思議でならなかった。

 

その絵を初めに美しいと感じたのは、四郎の祖母、珠枝であった。作者のSも、この作品を知り合いの画商との付き合いで購入した一郎およびその妻・貞も、特に美しいとは思わなかった。

Sは、この作品が美術であることを信じて疑ってはいなかったが、どことなくこの作品をなぜ生み出してしまったのかいまいちよくわかってはいなかった。

画商は、Sと契約していたため、その絵もほかの作品とともに受け取っただけだった。もちろん、受け取るに当たってはひとしきり褒め言葉を与え、また芸術史上の位置付けを考察し(つまり、キュビズムと古典主義とアンフォルメルの融合がどうとかこうとか)、作者であるSにさえ「ははあ、そういうことですか」などと言わしめた上で受領した。

画商にとって絵とは商売道具であり、心の中では「ちょっとこれは売れにくそうだな」と思っていたが、そんなことはおくびにも出さない。これからも気持ちよく絵を描いてもらわないといけないのだから、おべんちゃらなど十も二十も出せる。おべんちゃらついでに売れ筋である富士山をモチーフとした連作をそろそろ描いていただけないかと添えておいて、無事快諾を得たりもした。

案の定売れ残って隅に追いやられていたこの作品(タイトルは「O嬢」。この題は、一郎が譲り受けた時から後に寄贈されるまで、誰も知ることはない)を、画商はそのほかの売れ残りとともに持て余していた。まとまった金がほしかったが、在庫一括処分を快く引き受けてくれるような金持ちは不況の折、一人もいない。

これまでの顧客を訪ね歩き、顧客の知人を紹介してもらって、まるで訪問セールスのように画商は絵を売って回った。その時、過去に印象派の小さな絵を買ってくれた一郎のもとを訪れ、玄関先で一時間、客間に上がりこんでからは二時間粘り、この絵を売った。

一郎からすれば、まったく三時間も粘られ、いいとも悪いともわからない絵に十数万円払わされる格好となった。画商はしきりに値が上がると言うが、自分のように絵に強い関心のないものが、いつ値上がりを知れるのだろうかと、この絵を見るたびに思うのであった。

 

その数年後、一郎が病気で亡くなり、息子・二郎とその妻、珠枝、そして子どもの三郎が実家に戻った。母・貞を一人にしておけないが、貞がこの家を離れたがらないため、二郎は珠枝を説得したのであった。

珠枝は、貞を立てつつも着々と家を自分のものにしていった。ちょっとした飾りや古かった家電などをひとつずつ取り替えた。大きな家具は、立派なものが多く買い換えるに及ばなかったから、見た目にはさほど違和感がなかったが、少しずつ旧世代のものが減っていった。

ある日、珠枝は手付かずだった倉庫へ侵入した。そもそもこの倉庫に何があるのかさえ知らなかった。埃を被った餅つき用の臼や壺などが置かれ、貞が死んだらすぐに骨董屋を呼んで売り払おうと珠枝は思った。

その中にこの絵があった。箱の中に仕舞われていたため、絵に埃は被っておらず、保存状態も悪くなかった。その絵を見た時、珠枝は四郎と同じように美しいと思った。綺麗ではないけれど、何か感じ入るものがある、そんな風に思った。

光の当たるところでよく見ようと、珠枝は外に出た。光が当たるとますます美しいと思えた。自らの体に被った埃を払い、玄関から続く廊下に飾った。

それから珠枝が亡くなるまでの二十年、この絵は貞や二郎、三郎は一切関心を示さなかったが、珠枝に愛され続けることとなった。

 

珠江の死後、二郎はこの絵を見るたびに辛い気持ちになるので、また物置に片付けられることとなった。

三郎とその妻・菊乃も人生で五回、物置整理をするのだが、そのたびにこの絵を見つけては、関心を示さなかった。かといって売るほどでもなく、そのままにされた。三郎は、子供の頃見かけたな、と少し思うのだが、それだけだった。

そして四郎が発掘する。四郎が倉庫を整理していたのは、両親が一年経たずにバタバタと亡くなって、その遺品整理のためだった。

この広い家に一人暮らしを始めることとなった四郎は、とにかく寂しかった。この絵を飾り、ウイスキーを飲むような日々が続いた。古めかしい家具に囲まれているのも、珠江の買った当時最新、今旧型の家電も煩わしかった。立派な家具のいくつかを売りに出すとなかなか良い値で買ってもらえた。ついでに絵の価値を聞いてみたが「わからない」と言われた。

三年ほど経ち、恵子と結婚してから家電を買い替えた。モダンなデザインの家具を新調し、すっかり家の雰囲気は変わった。二年後に五郎が生まれた。家の外壁を塗り直し、倉庫を潰してテラスを作った。家そのもの以外、父の代まで使われてきた様々なものが消えた。ただ、絵だけ、変わらずに飾られていた。

五郎はその小さな頃、白黒の絵を仰ぎ眺めるばかりであったが、背が伸びて真正面からその絵を見られるようになっていった。

中学生から美術部に入り、絵筆を握るようになった。四郎の作ったテラスにイーゼルを置き、庭や家や母親や空を描いた。高校生までは自分に絵の才能があると信じていたが、コンクールに落選し、賞を与えられた作品の展示会を見にいった時にいろいろ諦めた。

そこから勉強を始め、国立大の美学科に進学し、美術史を研究し始めた。

大学院生の時に図書館司書をしていたユリと結婚し、小さなアパートに住んだ。父、五郎は四郎にあの絵を渡した。絵にとって敷地を出る初めての経験となった。

五郎は当初具体派やもの派など日本の前衛を研究していたが、ある日家であの絵が目に入り、そもそもこの絵は誰の何と言う題のいつ描かれたものなのか、不意に気がかりになった。五郎はこの絵をすごいとも綺麗とも美しいとも思っていなかった。ただ、好きだと思っていた。

五郎はすぐに作者Sへ行き当たり、地元の画家であることを突き止めた。画商の遺族から画商の持っていた作品リストを譲り受け、タイトルが「O嬢」であることがわかった。せっかくなのでSの遺族の協力も得て、その功績を簡単な論文にまとめ、その美術史上の立ち位置を明らかにした。

Sの地元であり、五郎にとっても身近な私立美術館と連携して、Sの作品をまとめて購入させたりした。Sはいくつかの賞を獲っていたので、ただの日曜画家扱いされずに済んだのである。

四郎の死後、五郎はまたあの家に戻り、O嬢もまた戻った。

そして五郎の死後、六郎は廊下に飾られたその絵を眺めた。居間に夕日が差し込んでいた。遺品整理の際に、五郎の論文を読むもよくわからなかった。海外で働いている六郎は、この家の処分を進めていた。それで絵は市立美術館に寄贈することにした。

絵と家と人との関わりはそこで一旦終わった。私立美術館が「地元の画家たち」をテーマに年に一度くらい展覧会をする際に、飾られたり飾られなかったりした。飾られた時も、好かれたり大して注目を集めなかったりした。

六郎の後と家の跡地がどうなったかは知らない。