Nu blog

いつも考えていること

『勝手にふるえてろ』

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歯磨きのシーンが何度も繰り返される。ぺっと水を吐き出す音。
毎日歯を磨き、ゆすぎ、水を吐き出すように、ヨシカは頭の中ですれ違う人たちに自分の思いを垂れ流している。
妄想の中ですれ違う人たちは「いいね!」のマークのようにグーサインを差し出してくれるからだ。
駅員さん、釣りのおじさん、ウェイトレスさん、バスで隣に座る編み物おばさん、コンビニ店員、居酒屋のおばさん、マッサージのおじさん、お菓子屋さん…。
妄想では仲良く話せるが、現実にはまったく関わりのない人たち。
お、SNSっぽい。
ヨシカはSNSはやらないと言う。自分ごときの気持ちを世界に向けて発表するなんてできない、と。
SNSをやるかやらないかによらず、ここで表されている重要な問題は、私たちは他人に興味がないのに、他人は私に興味を持ってると思い込んでいること、だろう。
ヨシカは興味のない現実の人間の名前を覚えられない。課長のことはフレディ、営業課で一番できる同期を出木杉とあだ名し、オカリナを吹く隣人はオカリナと名付け、自分にアプローチしてきた営業課の男性をニと呼ぶ。妄想を垂れ流す相手の名前なんて知りやしない。
しかし、相手は自分のことを知っていると思うから、ゴミを集めるおばさんを、ヨシカはバスで隣に座っている編み物の人と認識しているのに、おばさんはヨシカのことをまったく認知していないことにショックを受ける。
不均衡、矢印は全て自分から放たれるばかりで誰も自分向けの矢印を放ってくれていないショック。
なので、イチに名前を覚えてもらっていなかったことのショックは何にも増して大きい。「あああああ〜…」と胸を押さえどこまでも後退せざるを得ない。
ここらへんで、女子の恋愛ではなく、誰しも持っている「寂しさ」みたいなものが主題になってんだなー、と*1

他人から自分に向けて矢印が放たれてこないと寂しい。とにかく寂しい。自分ばっかり矢印を出して、相手にされないなんて割りに合わない。
だから、ヨシカは好きでもないニからの告白(自分宛の矢印)に舞い上がるが、矢印の発信方法は自分なりに分かっていても、受け止め方はちっとも分からないままで、自分はイチと再会するために同窓会を画策したり、東京で会うことを提案したり。
イチへの失恋後、ニと卓球をすることで、向かい合っての双方向のコミュニケーションがスタートする。
背景で火が上がっていて、そういえば経理課の隣は謎の「花火課」だったなと思う。

一転、友人のクルミがニに自分のことー「結婚願望が強いこと」「処女であること」ーを教えていたと知り、ブチギレ。
やっと向かい合ってのコミュニケーションがスタートしたのに、世界は自分対他人だけでなく、他人対他人の矢印もあって、自分の知らないところで自分のことが噂になっていることにまたしてもショックを受ける。
ようやく世界が広がるヨシカ。こういう瞬間って、あるよね。へらへら噂話してたら本人の耳に入っちゃって本人激怒、みたいな。あ、他人にも感情があるんだ、と知る瞬間。点から線、線から面へと次元が上がり、果ては描くことのできない4次元以上の世界にアクセスできるようになる瞬間。
クルミからの留守番電話を「中学生みたい」と笑うが、自分のことを棚に上げまくっちゃってる。
嘘の妊娠、受理されない産休も中学生のよう。原作では父親に説教を食らうシーンがあって、ますます中学生である。

隣人、片桐はいりとの壁越しのセッションで、また双方向のコミュニケーションを再開し始める。
ニがそれまで放ってくれた矢印にようやく応答するヨシカ。イチを同窓会に引っ張り出したスキルを応用し、着信拒否するニへとアクセス。
勝手にふるえてろ」とニに対して言ったけれど、きっとそれは原作通りヨシカの脳内にいるイチに対しての言葉なのだろう。
辛酸なめ子さんのあとがきではないが、脳内にイチを飼い続けるのも、オタクとしてはありではないでしょうか。

最後に。
原作のニは「元体育会系いまはちょっとビール腹の体格で、伸びたスポーツ刈りの髪を整髪料でかためたいる、目鼻立ちのはっきりした、できたての弁当の底みたいなほかほかしたあつくるしいオーラの男性」なので、渡辺大知じゃなくで西郷どんやってる人のイメージでした。
デカいお金動かしてる自慢したり、写真撮って送るためにライン交換したり、エレベーターに乗ってきたり。原作では、ヨシカがニの家で妻ぶってみたら亭主ぶったり。
まー、かなりウザい人ですが、渡辺大知が可愛げあるように演じたので、物語が終わってからも2人はなんとかやっていけそうな気がしました。
と、いうのも、原作を読んだ時はニの元体育会系イメージにそうした言動が加わってウザいばかりなことに対し、ヨシカが「絶対にうまくやる、絶対にうまくやるから、これからも愛して」と放つから、心が締め付けられる、切実な気持ちになる。
うまくやれない気が大きくなる。
原作の終わりは映画の始まりのような気がしてきた。原作はラストシーンでようやくヨシカが世界を認識し始めるような感じ。
原作の趣きから映画は主題をアップデートしており、それが2010年と2018年の間ってこと、なんだと思いました。

furuetero-movie.com

勝手にふるえてろ (文春文庫)

勝手にふるえてろ (文春文庫)

 

 

*1:この表現が的確⇒「そこに仮託されている「夢」とは「男性としてではなく」承認されること、だと思う」「勝手にふるえてろ」に、なぜ、文化系の男性が熱狂するのかを、考えた(前レビューへの短い追記)|上田信治|note