もう鎮火したのかもしれませんが、中田敦彦氏のYouTube大学について。
私は世界史に疎いので、特に話題になったアラブ諸国の関係についてはなんともコメントできない。
なんで、まあ、印象派とゴッホ入門なる動画があったので見た。前後編約一時間。
参考図書はPen別冊。
いきなりここで「おぉ」と思った。美術好きとしてはできれば美術手帖界隈の本も一冊手に取ってほしい。美術手帖の方が専門家との距離も近いし、最新の情報も持っている上に、ポップのセンスも持ち合わせておりわかりやすい入門書もある。美術検定などもあるから、たぶん今日本の美術好きにおけるスタンダードは美術手帖的美術史観だろう。
たとえば、これらを手に取っていただきたかった。
中田敦彦氏は(たぶん出典を元に)、印象派の代表的な作家としてモネとルノワールを取り上げる。この二人を代表的な画家だと言わない人はいないだろう。
しかし、マネは外せない。なぜなら、マネは印象派にとって偉大な先輩であり、モネはマネの真似をしたのであるから。
またマネはその平面的な画面構成など、「近代の扉」を開いた人でもある。
この「近代は誰からか」問題だけで自分としてはめちゃ盛り上がる話題なのですが、人によってはマネ、モネと言うし、いいやクールベでしょうとか、ノンノン、セザンヌですよ! とか、ばっからしい、どう考えてもデュシャンだろうとか、そんな話になるわけです。ちなみにこの中にルノワールやゴッホ、ピカソ、ウォーホルはあまり出てこない(ピカソやポロックをあげる人もいるかもしれないが)。その理由は調べるべし。(↓参考図書)
話を戻すと、中田敦彦氏がマネの説明をしないので、印象派の出自がうやむやんなっちゃった。写実主義のクールベや、郊外制作の先駆け、バルビゾン派、つまりコローやミレーにも触れてほしい。
できるなら巨匠ターナーの晩年の作品や色彩の研究についても触れてほしいがこれはぼくの趣味。
そして印象派の代表に戻れば、ドガは外せない。少し触れられていたが、端役扱いはちと不満(「ドガさーーーーん!」©︎ギャグ漫画日和)。ピサロは割愛しても致し方ないか。そういう扱いも含めていじりがいがあると思うけど…。
印象派を「反逆者たち」として取り扱うのはいいけれど、マネが官展、サロンに固執し続けたことは外せない。また、産業革命以降の経済成長が印象派の一つの要因のように語っていたが、それではまるで庶民が裕福になって印象派の絵を買ってくれたかのようだ。実際はカイユボットのようなパトロンがいたことをなかったことにはできない。ルノワールが上流階級からの注文を受け始めたことは少し触れられていたけれども。
もし庶民が絵を買うようになった話をしたいなら、オランダ絵画にも触れるべきだ。フェルメールのような身近なシチュエーションや寓意を込めたモチーフなど、庶民の生活と絵画がつながっていた。
さらに言えばロマン主義の時代においては、「メデューズ号の筏」や「マドリード.1808年5月3日」のようにメディアとしての役割も担っていた。これらの絵から悲惨な事件や社会情勢を知ることもあった。
王族貴族のものであった絵画が、印象派を境に開放された、と認識しているのであれば、少し違うのではないか。
印象派の本当にすごいところは筆触分割の手法にある。筆触分割とは、色を混ぜ合わず、キャンパスにそのまま乗せて、重ねない手法のことで、鑑賞者の目・脳において色が混ざり合い、混ぜ合わせた絵の具よりも発色よく見える。
この手法に「近代」がある、と私は考える。
つまり、絵画固有の役割が「色彩」にあることがここで初めて明らかにされたからである。筆触分割の技法によって、世界に輪郭線がないことがわかった。私たちがたとえばリンゴを描くなら、まずその形を縁取るだろう。しかし、現実にはりんごの輪郭線など存在しない。周囲の環境、特に光の影響でりんごはいかようにも見える。くっきりと浮かび上がって見えることもあれば、ぼんやりと曖昧に見えることもある。
印象派および筆触分割によって、新しい世界が見えたわけである(もちろんそれ以前の作家がそれをわかっていなかった、表してこなかったではないが、理論的・意識的にそれを実践したのが印象派なのである)。
そうした筆触分割の技法を踏まえて、新印象派による点描画には触れてほしい。スーラとシスレーは名前だけでも出してあげほしい。
そして、ゴッホらポスト印象派たちが目指したものが目に見えるものではなく、心象風景などにあることも説明して欲しかった。
そうするとフォーヴィズムや世紀末美術などにも話がおよび、さらには抽象絵画やダダイズム、シュルレアリスム、未来派、キュビズムと世界が広がる。
芸術の世界は完結していないのだから、印象派を取り上げたら、その前後にどうつながっているのか、広がりに気づくとより楽しい。*1
中田敦彦氏は何度も「これ、すごいおもしろいんですよ」と言う。言うけれど、何が面白かったのかいまいちよくわからんのである。彼はムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会のどこがどう面白いと思ったのだろう。「楽しそうに踊る庶民が描かれているんですよ、おもしろいですよ、これ」と言われてもさっぱり伝わってこない。だって、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会を見たときに、「楽しそうな人々が描かれている」としか思わないのなら、たぶんあんまりその絵のことをおもしろいなんて思えてない。一瞬のきらめきや刹那的な幸福を感じたり、絵を見ているだけなのに映画のワンシーンのように、人々のざわめきが聞こえ、動きがわかったり、光の降り注ぐ光景になぜか懐かしさを覚えてもいい。芸術は、自分の経験や感情、感覚に触れてくるからおもしろいんじゃないのか。何が描かれているとか、どう描かれているというのは、おもしろさじゃなくてすごさでしかないし、そのすごさが自分の経験や感情、感覚を揺さぶらないなら、どんな技法だろうと意味がない。*2
門外漢にとっては入門の第一歩になる、関心を持つきっかけだ、という。そうかもしれん。この動画を機に絵画、印象派、ゴッホに興味を持ち、美術館に足を運ぶことがあるかもしれん。
なら良いのかもしれない。
でもちょっと良くない。
というのも、結局中田敦彦氏自身が絵画や芸術を今以上に知ろう、好きになろうと思わなさそうだからだ。
批判とかではない。
ただ、ひっそりと残念に思うだけで、それを好きな人間としてはもっと好きになってくれたらいいのになって思う。
教養は広い方がいい。できる限り深い方がいい。
でも、知らないことを知らないと言えるだけの知識がほしい。
一冊の本に依拠して簡単に断定できないということだけは何度も強調すべきだと思う。
すぐに知れる範囲で、ある程度知っているかのように錯覚しないでいられますように。