エンターテイメントは、その時代を生きる人々の想像力の最先端だ。
以前、お笑いやテレビ番組について、そんなようなことを書いた。
その時はジャルジャルやアルコアンドピース、有吉の大喜利から「本音」がトレンドで、笑いが作り出してきた虚構が告発されている、という所感を結論とした。であればこそ、「本音」の先にある新しい想像力が見たいのだ、と。
あの後、2014年の「THE MANZAI」は博多華丸・大吉が優勝した。
乾杯の練習やらユーチューバーになりたいやら、お笑いなのだけれど、親戚のふざけたおじさんを見るような、微笑みを作り出す漫才だった。
毎日見たくはないけれど、年に2回は見たくなる。親戚そのもののような笑いだった。
翌2015年、「M-1グランプリ」が復活。優勝はトレンディエンジェル。ハゲをネタにするおじさんである。方向性はまるで博多華丸・大吉と同じだ。
優勝者の他ぼくが注目したのはアキナやメイプル超合金。
アキナは対話の中で起きる応答の誤り=勘違いによる笑いを作り、メイプル超合金はファンタジック、というか現実離れした容姿の2人が輪をかけて空中を浮遊するような不可思議な会話を披露していた。
そこから感じた今のトレンドは、「爆笑」ではなく「微笑」。誰かを攻撃することで笑い転げるのは流行らない。
毒を排し、優しさを身に纏い、観客に安心を与え、一緒に笑う。そんな印象を受けた。
しかし、これは結論ではない。
さて、雑誌「BRUTUS」が漫才特集をしている。
読む漫才も面白い! と感嘆するし、漫才の歴史をまとめた6ページも圧巻。読み応えのある一冊だ。
サンキュータツオ氏の「言語学的アプローチ」も興味深い。笑いはなぜ起きるのか、どう起こされているのか?
笑いの構造としてまず、ショーペンハウエルの「ズレ」の理論を紹介している。
ある条件に対してら人々の抱くイメージに対比するイメージを提示し、笑いを生じせしめるというもの。
つまり、「夏だねえ」に対し「鍋の季節だねえ」と返したら「なんでやねん」となる、そんなようなことだ。私の作った例えなので、何も面白くないけれど。
落語「代書屋」から引用すれば、
「小学校は卒業しましたか?」
「そら、もう、きっちり2年で」
なんてくだりは、人々の抱く「小学校は6年で卒業するもの」という思い込みを裏切ることで、笑いを生み出している、と言える。
もう1つ、「フレームの活性化」という笑いの構造も示されていた。
これも上と同じで、「こうあるべし」「こうあるだろう」という期待を、どの段階で、どう裏切るかを分類したものである。
- 発話機能フレーム
回答における「質、量、様態、文脈」での裏切り。
落語「代書屋」にまた頼れば、
「お名前を教えてください」
「わたしの名前ですか? いやー、えーっと、あはははは。いやー、お恥ずかしい話ですけどね、わたし、自分の名前最近まで知らなんでね。あはははは。親父が死ぬ前にわたしを呼んでね、トメ〜、お前のほんまの名前はな〜、トメゴロウっちゅうや〜、言うて、コテっと死んでしまったんですわ。わたしの名前はトメゴロウ、間違いありません!」
なんてのは質も量も発話機能フレームに異常を来した故の笑いである。
「会話の成り立たなさ」に着目したものとして、アンドレ・ブルトンの「シュールレアリスム宣言」が思い浮かぶ。
「何歳ですか、あなたは?」ー「あなたです。」
「あなたのお名前は?」ー「四十五軒の家です。」
アンドレ・ブルトンないしシュールレアリスムは、精神病患者の上記のような応答に着目し、社交性や習慣によって隠された混乱を暴き、精神の自由、解放を目指した。
シュールレアリスムによる有名な手法の1つ「デペイズマン」にも笑いの構造と似たものを感じる。
「小川のなかを流れる歌がある」
あるいは、
「昼が白いテーブルクロスのようにひろがった」
あるいは、
「世界は袋のなかにもどる」
といったイメージ(比喩)について、
二つの項のいわば偶然の接近から、ある特殊な光、イメージの光がほとばしったのであり、私たちは、これに対してかぎりなく敏感なところを見せている。イメージの価値は、得られた閃光の美しさにかかっており、したがって、二つの電導体間の電位差の関数なのである。
と述べている。それらの類型として以下のように言う。
私にとってもっとも強いイメージとは、もっとも高度な気ままさを示しているものであることを、隠さずにいおう。それはつまり、実用的な言語に翻訳するのにもっとも時間のかかるイメージなのであって、たとえば、法外な量の外見的矛盾をふくんでいたり、項のひとつが奇妙にうばわれていたり、センセーショナルな出現を予感させながらもかすかにほぐれるけはいを見せていたり、とるにたらない形式的な正当化をそれ自身のなかからみちびいていたり、幻覚的な種類に属していたり、抽象的なものに具体的なものの仮面をごく自然に貸しあたえていたり、あるいはその逆であったり、ある種の基本的な物理的特性の否定をはらんでいたり、笑いを爆発させるものであったりする。(岩波文庫「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」より。太字は引用者によるもの)
芸術、精神の自由や想像力と笑い、エンターテイメントは不可分なのだと強く思う。
- 発話内容フレーム
サンキュータツオ氏によれば「前後の文脈にあっているが、そこで言うべきじゃないこと」と説明されている。ここの説明はあまりよくわからなかった。
- 言語形式フレーム
ダジャレや言葉遊びのこと。
落語「代書屋」を三たび引用すれば、
「生年月日を言ってください」
「私が?」
「あんた以外誰がいるんですか」
「わかりました。…生年月日!」
「誰が"生年月日"を言え、と言うたんですか! 生年月日を、言ってください!」
「私が?」
「あんた以外おらんやろ」
「……、生年月日、を!」
なんてのは、言葉遊び=言語形式フレームの異常による笑いであろう。
あるいはアキナの
「そこで温かい言葉をかけてあげろ!」
「お湯?」
「希望に満ちた言葉を言ってやれ!」
「明日行ったら5連休」
という掛け合いもまた言語形式フレーム異常による笑いである(発話機能フレームにも異常が起きている、かもしれない)。
分類云々は何でもよくて、「そうあるべし」「そうあってほしい」「そうあるだろう」に対する裏切りが笑いの発生源なのだ。「普通」に対しての「異常」。それは言い換えれば、桂枝雀言うところの「緊張と緩和」だろう。
サンキュータツオ氏が分類しにくいと言うポイズンガールバンドにしても、演者2人の会話が観客の認識と噛み合わない、という「緊張」がとぼけた話し口により「緩和」されている。発話機能だろうが、発話内容だろうが何でも良い。場に異常を生じさせているのである。
いづれにせよ、言うは易く行うは難し。
分析し、笑いの構造を見出したとしても、それを再現し、笑いを作り出すことは一筋縄でできるものではない。
ポイズンガールバンドには彼ら2人でしか作れない場がある。このことがとても重要だと僕は思う。
閑話休題。
はじめに戻り「この時代の想像力」について、もう少し考える。
ロバートの秋山から考えてみたい。
このところの彼の仕事は不思議なもので、「クリエイターズ・ファイル」なる「プロフェッショナル 仕事の流儀」や「情熱大陸」、あるいは「ガイアの夜明け」や「カンブリア宮殿」をパロディ・意識したような映像作品だ。
テレビが作り出してきた「かっこいい職業への憧れ」を戯画化し、虚構を作り上げている。
もともとロバートというトリオ自体、コントやキャラという虚構の構築を得意としてきたのだが、その真骨頂とも言える作品になっている。
コント的虚構は演劇と隣り合わせなのだが、ロバートないし秋山は演劇にならないところがすごい。
このあたり、うまく説明できないのだけれど…。
演劇には「生身」や「現実」があるが、コントにはそうした「肉」の部分がないような…。
一言で言えば、ただの悪ふざけ、なのだけれど…。
悪ふざけ、と言えば、今流行りのピコ太郎。あれは悪ふざけだろう。しかし、たった1分の悪ふざけが転がり転がり、グローバルなムーブメントを起こしている。
ロバートの秋山もピコ太郎も、悪意のない悪ふざけ、と受け止められているように思う。
彼らは誰かを嫌な気持ちにしないから、安心して人と「共有」できるし、「共有」したい気持ちに火を点けている。
多様性が大切にされる現代で、ポリティカル・コレクトな表現、誰かを嫌な気持ちにしないことは重要だ。そう言うと「配慮」「自己規制」「自粛」とネガティヴに捉えられる向きもあるが、そうでないことは上記の例ー「悪意のない悪ふざけ」ーからも明白だろう。
「共有」というキーワードが出てきた。
エンターテイメントの一分野として音楽を取り上げれば、それはずいぶん前から「共有」の文化を持っていて、たとえば最近なら星野源の音楽なんかは意図的に「共有」を狙っているように思う。
ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のエンディング曲「恋」は、音自体はさほどダンスミュージックでもないのに、エンディングのダンスを見ていると、踊りたくなってしまうし、いろんな人の踊りをyoutubeで見てしまう。
こうしたダンス→共有の渦はPerfumeが先駆者かとは思うが、強烈なコンボであるし、これからも増え続けるだろう。
あるいは渡辺直美なんかも共有の文化を上手く渡り歩いているのかもしれない。
Instagramでのフォロワーを増やし、発信力を強め、カルチャーを牽引している。
自身のエンターテイナーとしての魅力を高めるために「共有」を上手く使っているように思う。
今さらSNSがどうのこうのと言うまでもなく「共有」の感覚は高まっている。
「共有」には、排除の論理はない。来るものを拒まない。それ故に排除のない笑いである「微笑み」が求められる理由も自ずから明らかだ。
たとえば談志の落語は(見事な芸であることは確かとしても)罵詈雑言のオンパレードで、広く一般には共有しにくいが、アキナの漫才にはバカにされる人がいないから安心して共有できる、というような。
共有型経済、とのリンクも考えるべきだろう。
NHKの「マネー・ワールド」という番組で「共有型経済」というものが紹介されていた。日用品の貸し借りや食事の御裾分けといった、GDPにはならない経済活動のことである。
経済は思想とリンクし、思想とエンターテイメントはつながっているのだ。
排他性を内包してきた笑い・エンターテイメントが「共有の論理」を得て、「優しさ」を持つようになっている。
それが「本音」の先だろうと思う。
本音の世界は、排他的だ。誰かを退けて、笑い者にする。それは内側にいる人間からすれば、楽しく、大きな笑いになる。
アメリカの大統領選挙を見てみれば、本音の恐ろしさを感じるではないか。その候補者はどれだけ酷いことを言っても平気な顔をして、ニヤニヤと笑い、支持者は喝采を叫び、笑みを浮かべている。
四角いものを丸く収めること。これからの思想、エンターテイメントは何者をもすべて受け入れられるような、懐の深さが必要なはずだ*1。
それはなぜか、と言えば、経済・思想がそれを求めているからだ、ということを忘れてはならない。
桂枝雀 Shijaku Katsura 代書屋 落語 Rakugo