アメリカの大統領と言えば、自分にとってはブッシュ(子)とオバマだった。
ぼくの記憶が明確にあるのは、2000年代からなので致し方ない。90年代って誰が大統領だったの?って感じである。え、あ、それがクリントン(夫)とブッシュ(父)だったのか…。
それは…、確かに…、トランプの選択しかないのかも…。というよりも、クリントン(妻)以外の選択をしたくなるのも分かる、という感じ。
だって、
では変化がなさすぎる。5中4がブッシュとクリントンて、西園寺公望と桂太郎じゃあるまいし。
冗談めかさずとも「この四半世紀に起こった悪いことが増幅するだけで、この調子で良いことは減る一方だ」と感じるのもやむを得ない、と感覚的に頷ける気がするのだ。
3点、感じたことを書いておきたい。
1.経済第一の世界
なぜ、トランプが負けるとメディアが予想していたかと言えば、その発言がーー「過激な発言」とか「注目を集める言動」などと報道されることが多かったが--、明らかに「差別的」だったからだ。
差別的な発言をする人が受け入れられるはずがない、だからクリントンが勝つ。これが、メディアの報道姿勢、この選挙の捉えられ方だった。
しかし、実際には差別的発言は喜ばれていたし、差別発言だけでない主張そのものも受けていた。その結果がこれなわけだ。
トランプ氏について、移民排斥、女性蔑視、イスラム恐怖症、マイノリティー軽視などの過激発言が注目されてきましたが、トランプ氏は同時に、高齢者福祉は不可侵であり、公共事業の大盤振る舞い、一部の投資所得への増税を公約しています。これは、「小さな政府」が金科玉条の従来型の共和党候補から出てきません。トランプ現象を、白人貧困層の不満の捌け口に過ぎないと切り捨ててきたエリートは、この点は見誤っているのです。(山猫日記「トランプ大統領誕生」)
つまり、不満をぶちまけ、移民が悪い、女が悪い、イスラムが悪いと罵っていただけでなく、その不満への対応として、古き良き政策を「あなたのために」やりまっせ、と言っていた。それが人々の心をつかんだ。
しかし、そんな古き良き政策に意味があるのか、という根本的な疑念があるし、それについてメディアは問うていたのだろうけれど、トランプの声を聞く人には、メディアの声は聞こえなかった。
これが今回、最も不思議な現象のように思えるし、まあ、そんなもんかと思うところでもある。
あるいは以下のようにそれが「本気でなかった」と力説することもできる。
「移民のせいで賃金が下がる」という言説が垂れ流されたら、「賃金を下げてるのは移民ではなく、移民労働者を低賃金で搾取するあなたたち資本家だ」と言うこと。
「移民が社会保障にただ乗りしている」と言われたら、「移民たちは、あなたのような資本家が税逃れしている間にも必死に働いて納税してきた」と反論すること。
これまでCNNやニューヨーク・タイムズはどこまで本気でその努力をしてきたか。(The Eyes of a Cloud「トランプ勝利:日本人は胸に手を当てるべき」)
結果が結果だけに、メディアには本気の努力が足りなかったのかもしれない。
とは言え、端で見る限り、トランプの演説や討論での主張を、バカバカしくともあくまで「大統領候補の主張」として取り扱い、ファクト・チェックをして、その否定を行っていた。にも関わらず、どうしてそのメディアの声は聞いてもらえなかったのか?
いや、むしろ「正しいことは聞いてもらえる」というのは、あまりにも儚い妄想なのだ。それは別に今さら、分かったことではない。理性的な「正しさ」・長期的な利益よりも、目先の「期待感」「うまいこといったら儲けもん」な感情が優先される光景は、それ自体は初めてのものではない。
つまり、経済第一、なんて格好良い言葉でもなく、「給料良くならんかな」という程度で投票行動が決められていた、なんてことは今に始まった事でもない。
今回の選挙結果は、過程を含め、何も新しくはなかった。だからこそ、それ(=正しいことは聞いてもらえる、という妄想)について、メディアや「衝撃を受けた」人たちは、考え直さないといけない。
2.高齢の戦い:アマチュアイズム
トランプは70歳。クリントンにしてもご高齢で、そういえば、この間の東京都知事選も媼、翁ばかりが立候補していた。
年齢に上限はない・年齢で可能性は否定されない、とは言えど、どうもしっくり来ない。
この現象をぼくは、「政治に関わるほど暇な人は高齢者」だと思っている。いわゆる現役世代は経済活動に携わっており、政治にかかわる暇も金もないのだ。
もう一つ、アマチュアイズムとでも言うのか、政治経験がない人への期待がトランプを押し上げたことも重要だ。
もちろん、政治経験や軍隊経験のない人が政権を握ることに対して、不安を覚えても、(制度上の)問題はない。
日本なんてずっと前からプロの政治家が嫌いな国で、お笑い芸人や小説家が知事に選ばれ、落語家や漫才師、プロレスラーやアイドルが参院選で勝っていて、功罪あれど、(制度上の)問題はない。
(制度上の)問題がないことと、(倫理上の)問題がないことはイコールしない=ヒトラー、ナチスの例が思い浮かぶ。
つまり、(制度上の)問題はないが、その先、どうしたいのかはっきりしないのだ。タレント候補の怖いところは、主張がブレるところで、なんとなく期待して選んでみたものの、いつの間にやら先行きが見えなくなることなのだ。
項番1の結論とほぼ同じだが、理性的とされる判断よりも期待感やお祭り的選択が現実化してしまって、ご満悦のピークが開票時、当選時の一瞬だけになってしまっている。
選挙運動全体が、どのようなメディアを使うのであれ、実際に投入されたメディアの跡を見なおすと、それらは政策や主義の情報やコミュニケーションではなく、感情をトリガーする操作が決め手になっていたとはいえる。(極東ブログ「トランプ候補はなぜ大統領選に勝ったのか」)
ナイアガラの滝の端に立っている時、一瞬、柵を越えたらどうなるんだろうって心の中で思うのと同じような感覚で、黒幕になったような気分で、どうなっちゃうのか見てみたい一心でトランプにポンと票を入れる奴はいっぱいいるだろう。(マイケル・ムーア「ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう」)
このことを読み解かず、放ったままで、ただただ「理性」や「正義」を振りかざしているだけなら、日本だろうがアメリカだろうが、「民主主義」の意義を内側から崩れさせていくことになるだろう。
3.鼻持ちならない選民思想
ぼくは大学を出て、就職して、もう五年もデスクワークしている。関係各所の担当者と調整し、資料を作って、係長、課長、部長、役員に説明して、了をもらって、と思ったら関係部署からご意見頂戴して、また調整して、変更点を係長、課長、部長、役員に説明し直し…、みたいな賽の河原みたいなことをずっとやっている。
アメリカにもぼくのような人がいるのだろうか。まあ、形は違えど、「中産階級の凡庸な男性」がビルというビルの中に詰め込まれているに違いない。
トランプを支持した人のことを想像する時、肉体労働者あるいは求職者を想像し、彼らが不満のはけ口としてトランプを選んだのだ!と思ってしまいたくなるが、きっとトランプを支持した人の中には、ぼくのような大したことができるわけでもない、凡庸な男性がたくさん含まれているに違いない。
「ポリティカル・コレクトネスだとかなんだとか言って、わけわからん。すぱっと言ってやりゃあいいんだよ(俺の平穏な日常が保たれればいいんだよ)」みたいな人は割と多い。「ポリティカル・コレクトネス」を「セクハラ」とか「パワハラ」に置き換えてみれば、割と簡単に想像できる。「んな、わけわからんこと言って、面倒だな!」。
ホワイトカラーと言われる人は実は「理性的な人」ではなく、「選ばれていないと感じる側」の人なのだ。そして、もっと言えば、本人は「差別主義者ではない」と思っていて、しかし、一皮剥けば「差別主義者」な人で、しかししかし、社会生活上、そうした「面倒な言動」には"気をつけている"だけなのだ。隣の部署の係長は、そういう面倒に巻き込まれて大変そうだったなあ、なんて。
そんな私(=中産階級の凡庸な男性)からすれば、表向き正しいことを言いつつ、地位の安定したエスタブリッシュメント(既成勢力)は選ばれた人であり、とにかく疎ましい(どうせ裏では悪いことやってんでしょ?)。
あるいはその「正しいこと」に乗っかって主張する「小賢しい人」たちも鬱陶しくてたまらない。面倒でしょうがない(この場面で「普通の人」の移民や女性、LGBTへの差別意識が現れる)。
バシバシと文句を言ってくれるトランプは、職場で公表はできないが、理解できるし、投票はひっそりしちゃおう。うへへ、あの鼻持ちならない連中(=既成勢力及び小賢しい人たち)の驚くところが見たいもんだ、ってな具合である。
終盤にクリントンの見せたミュージシャンとか有名人のライブに参加するとかのパフォーマンスは、私(=中産階級の凡庸な男性)からすれば、選ばれた人たちの選ばれた人たちによる宴会にしか見えなかっただろう、と思う。メディアに擁護され、女性初と持ち上げられている人のどこに私(=中産階級の凡庸な男性)が共感できただろうか?
どうも考えれば考えるほど、トランプに投票した理由も(感覚的に)理解できるような気さえする。
人間は「理性的」ではない。それは絶望でもなんでもない。ずーっと前からそうだった。
なぜか、いつか見たオマー・ファスト「コンティニュイティ」という映像作品のことを思い出した。東京オペラシティの「幸福はぼくを見つけてくれるかな?」展で観た。
なぜ思い出したのか、とかそういう理屈はないのだけれど。
「ドイツ人夫婦が、アフガニスタンから帰還した息子を出迎え、自宅で夕食をともにする」という物語が何度も繰り返されるのだが、繰り返されるたびに息子が新しく入れ替わり、ディテールが少しずつ変わっていくことで、いつしかフィクションと現実の境目が消失したような錯覚に陥ってしまう。そのことに気付いたとき、「普段ぼくたちは、いかにメディアから影響を受け、信じ込ませられているか」ということに思いが至ることだろう(「?」だらけの映像作品:ぼくらがわざわざ美術館に行く理由)
理性を信じるのか。民主主義は理性を重んじた政治体制だ。その理性とは、正しさのことで、民主主義は一人一人が人類普遍の理想を追求することを前提としている。
けれど、今回の件を通じ、希望や期待、わくわく感に身を委ねる人間の選択の方が--一人一人に寄り添ってその選択(=トランプ)を考えてみた時に(彼はどんな生活をしてきたのだろう? 何を感じて生きてきたのだろう?)--、理性的な判断のように感じられた。
と、すれば、民主主義の前提はどこか少しズレている。人は、人類普遍の理想も大事だろうとは思いつつも、普通に生きるにあたっては、自分のことを考えていて、自分にとっての理性(=希望、期待、ワクワク感)を優先している。
それ(=理性という妄想)を織り込んだ民主主義にアップデートしなければ、何度でも、あらゆる国で、あらゆる条件から、一過的な希望を語るリーダーが出てきてしまうだろうし、いやそもそも一過的な希望は悪いことなのか、から考え直したくなる。
国家や政治に本当に「正しさ」や「理性」の行方を委ねるなら、選挙の仕組みの中でトランプをリフューズする仕組みが必要だろうとぼくは思う。
なぜなら、人間は彼をリフューズできなかったどころか、大統領に選び出してしまったのだから、仕組みから見直さないといけないのだ。
あるいは、国家や政治に、そこまでの力(=正しさや理性の砦)を持たせないこと、ともぼくは思う。
参考一覧
ドナルド・トランプが大統領になる5つの理由を教えよう | Michael Moore
トランプ勝利:日本人は胸に手を当てるべき | The Eyes of a Cloud