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いつも考えていること

梅棹忠夫『メディアとしての博物館』

学芸員の勉強をしていると、よく見かけた参考文献の一つに、梅棹忠夫の『メディアとしての博物館』がある。

ご存知、『知的生産の技術』の著者であり、京大式カードの生みの親である梅棹忠夫は、国立民族学博物館の館長として博物館学の発展にも寄与した人物なのである。

特に「展示」や「収集・保管」といった今日の博物館においては基本的な技術を、IT技術を導入しながら発展させた功績がある。むしろ、当時の梅棹先生からすれば、こんなこともしてないの?の連続だったのかもしれない。その点で、ある種の抵抗を受けつつも博物館の持つ社会的意義を強く感じ、技術革新の導入をリードしていったことが本書からはうかがえる。

梅棹先生が博物館を高く評価していたことは、以下のような一文からもわかる。

現在、日本の博物館が対象としてむかえているのは、もはや篤志家や好事家だけではありません。きわめてたかい教養をそなえ、知的欲求にみちみちた、あたらしい大衆社会の市民たちであります。(略)とうてい教養や啓蒙の対象ではありません。(略)博物館は(略)本質的には、情報提供の機関でありますが、その提供する情報の内容についても、また、その情報の提供のしかたについても、たえざるくふうを必要としているのであります。(p17-18)

博物館の提供するサービスは市民たちに待ち望まれているのだと強く意識し、その果たすべき役割を具体的に分析している。ともすれば、博物館に人なんて来ないと諦めてしまう運営側、あるいは博物館は古臭く、かび臭いと頭から決めつけてしまう私たちである。梅棹先生の使命感は、博物館の運営側にも、市民である私たちにも訴えかけてくるものがあるだろう。

市民を侮るべからず、という認識は博物館の有する教育機能についても及んでおり、

もともと、文化と教育とはべつのことなのです。ある意味では、文化と教育は正反対の方向のものなのです。教育とは、いわば人間に充電、チャージすることです。それに対して、文化は、放電、ディスチャージなんです。文化はあそびなんです。たまったエネルギーの放出なんです。わたしは、博物館を、そのようなあそびの場所、知的娯楽の場所としてとらえています。アミューズメント(娯楽)とミュージアム(博物館)ということばから、わたしはふたつをくっつけて、アミュージアムなどといっているのです。教育関係のかたがおやりになると、どうしても、市民に「おしえてやる」という方向にはしってしまう。p124

といった戒めにもつながる。こうした考え方は現在の工夫凝らされた博物館らの思想に直接つながっているものだ。

県内に考古学系(歴史・民俗)と美術、そして科学の三つの博物館がいると話すくだりも興味深い。

「県立博物館が県民に一般知識をあたえる場所」だから、隣の県に歴史博物館があるからうちの県は科学博物館を作ります、というような機能分担主義はダメだという。

また、一般知識をあたえる機能を持つため、「各県の博物館がにてくるのは、当然のこと」「基本に忠実な博物館をつくれば、特色はおのずからでてくるもの」という論も興味深い。

現在の行政の単位として都道府県がある以上、都道府県単位で最低限の機能を有するべきという議論の展開は、戦後知識人らしい使命感に溢れており、また実際そのとおりだろうと私は同感する。

とはいえ、その頃作られ、いまや老朽化の進んだ箱物たちをどのように復活させるか、という現在の問題はそれはそれで難しいものだ。とくに当時と違い、財政的な問題も少なくない。介護等福祉関係にいますぐ回すべき予算で精一杯なところもある。

 

そうしたことを予見してか、梅棹先生は「情報産業としての博物館」という章で、博物館は「いつでもおなじ商品を提供しつづけておればいいのである」と書く。

なんであれば、あけすけに「あたらしい商品開発はつぎつぎかんがえられるけれど、あまり流行にわずらわされることなく、何年でもおなじ物を提供しておればいいのである」とまでいう。

梅棹先生はブライダル産業を引き合いに出して、いわく結婚式は個人にとって一生に一度だが、社会的には結婚式がなくならないから、ブライダル産業は安定したマーケットとして成立するのと同じように、ミュージアムも同じ博物館を何度も訪れる人はいなくはないが、大抵は一度きりしかこない。個人にとっては一度きりでもそうした人がたくさんいればミュージアム・マーケットは安定するのだという。

この論は先々週書いた東浩紀の「批評は病院」論にも通ずるものがあるように思う。

つまり、ミュージアムをほぼ毎日必要とするような人はいない。大抵は、幼少期の経験やあるいは旅行先の目的地の一つとして一度きり来るばかりである。

しかし、反対に言えば、人生で一度は博物館を必要とするときがある。

そのときに、どれだけのことをその人に伝えられるか。

展示した資料の価値そのものが伝わらなくていい。「私たち人類は、こうした資料に価値を認め、博物館に収蔵し、時に展示しているんですよ」という、そういう文化的営みの重要性を、少なくともそれだけを伝えることで、各地に作られた博物館の必要性が認識されるのではないか。

 

最後に、話がズレるが面白かったエピソードをひとつ。

現在は違うかもしれないが、当時の国立民族学博物館には「英語その他の外国語の説明がいっさいない」というお話(展示場内の解説文についてのこと。案内パンフレットは外国語版を作ったとのこと)。

国際的施設である博物館において、言語的配慮を欠くのではないかとご意見いただくことが多々あるらしいが、梅棹氏は「なぜ英語だけをとりだして、日本の国立の博物館で使わなければならないのか。理論的な理由づけはかなりむつかし」いという。

英語、英語と人がとやかく言ってくるのは「連合軍による日本占領時代の後遺症」ではないかと考察し、「わたしはいまでも、そのころの文化的屈辱をわすれることはできない」とおっしゃる。

また、東南アジアからきた青年たちに「日本語は、英語やフランス語とおなじように、それだけでなんでもいえる言語なんですね」と言われ、学術的な事項を説明するための言語として、他国では英語を必要とすることがあるものの、「日本語はなんでもいえる」ことを発見したというエピソードも描かれる。

新鮮といえば新鮮だ。英語がなくとも最先端の研究に触れられる言語は、今日もそう多くはない。

そして、英語の表示があれば日本人にとっても英語の勉強になるのではといわれたことがあるらしいが、「博物館は英語教室ではない。英語の学習はべつのところでおねがいしたい」と慇懃におっしゃているのには笑った。

まあ、でも、多国語表記する方が親切だと思いますけども。