Nu blog

いつも考えていること

言葉について

東洋経済に「なぜ地方出身者は東京に「染まる」のか」という論考があった。

東京大学大学院経済学研究科の佐藤泰裕氏による「社会的同化という問題を帰属意識変化の観点から分析」した研究の簡単なまとめらしい。

社会的同化にかかる帰属意識変化については以下の3つの要素に分けて議論されている、という。

帰属意識を変化させることで金銭的便益を得ることができる

②異なる文化による心理的な費用(文化的な摩擦によるコスト)を低減させられる

③帰属しようとする集団の社会的地位から得られる満足度

その3つの観点から、マイノリティーがマジョリティーの文化を受容していくと考えられているわけだ。

日本語話者の私がニューヨークに行って一旗あげてやろうと目論んでいるのに、英語を話さずに、伝わらない日本語と身振り手振りでやっていこうとしたら、経済的にはチャンスを逃し損を掴まされ、心理的ストレスを感じることだろう。英語でやりとりする人々を見て、自分が極東のど田舎から来たアホ丸出しのクソガキだと気づいたら、「英語でビジネスする私」というアイデンティティを得るために英語習得に励むに違いない。

そんなわけで、佐藤教授の論考には大変妥当性を感じつつも、では論考のタイトルに掲げられたように、東京に来る地方出身者は果たしてそのような理由でいわゆる「標準語」を操るようになるのか、が気になった。

私は状況から早九年、関西弁話者として過ごしてきて、知らぬ間に経済的損失を被っていたのであれば悲しい!

むろん、日本語間における同化あるいは抵抗については、個々人の選択が大きな要素になると思う。関西弁なら伝わるが、どこそこ弁なら伝わらない、というようなハードルの上下。あるいは個々人の持つ地元への意識(愛憎混じるものも多かろう)(私は関西を愛している? さてどうでしょうって感じもする)。そして、いわゆる「標準語」を自身のアイデンティティとしてどこまで高く見積もるか、という問題(要は「方言」だとバカにされる!という意識の強弱)。

 

私としては、「標準語」など幻想に過ぎないのだから、みな自由に母語を愛し、闊達に使うべしと思う。とはいえ、特にビジネスの場では「冷静沈着であること」を示すべく「標準語」の使用が励行されているように感じる。

話を変えるわけではないが、こんなことを考えるのも、関ジャムでいしわたり淳治が「藤井風の魅力の一つは歌詞が方言で書かれていること」などと宣ったからである。あの発言に私は激怒した。

藤井風とは2020年を代表する新人で、メジャーデビューした瞬間から「ヤバい奴がいる」と話題をかっさらった。曲も歌詞も声も素晴らしい。すごい人である。Twitterで「宇多田ヒカルが登場した時ってこんな感じだったのかな?」と書いている人がいて、その感想の感覚めっちゃわかる、という気分。

さて、閑話休題

藤井風の魅力は曲も歌詞も声もすべて、なわけだが、要素の一つである「歌詞」には岡山弁が使われており、確かに標準語とは異なる言葉が乗っかっている。けれど、それって関係あるか?

むしろデビュー曲の「何なんw」で気になるところは末尾の「w」であるべきだ。ネットスラングが何のエクスキューズもなくすんなりと収まっていることの方が不思議を感じる。

方言方言と、「中央」の「標準語」を操る方々はあたかも土人放送禁止用語!)を見つけたかのように小便漏らして喜んでいらっしゃる(下品な表現…)が、それってそっくりそのままサイードのいう「オリエンタリズム」である。「原始的なリズムを奏でる方言」まで言えばコンプリートですが。ちなみに、いしわたり淳治氏は青森県出身である。

ところで、詩の世界で今でも愛されており、誰もが知っている(?)中原中也宮沢賢治の書き記した作品にも、故郷の言葉が燦々と散りばめられている(私がすぐに思いつくのは中也の「真っ直い」であるが、賢治については枚挙にいとまがないだろう)。

表現において「方言」が入り込むことは珍しいことでもなんでもない。むしろ、当然のことであり、自然である。「標準語」こそ方言から生まれでた人工語に過ぎないのに、方言を「新たな言語」のように愛でるのはやめてほしい。

先に「 母語」という言葉を使ったが、これは母の言葉ではなく、自分を象る言葉をそう称している。だから胎内語とかでもいい。

私が言葉を発する時、私の体内からは母の言葉だけでなく、これまでに交わしたあらゆる人との言葉、あるいは駅やデパート、スーパー、スタジアムで見聞きしたアナウンス、相撲中継、中島らものエッセイ、桂枝雀の落語、たくさんの漫才などの言葉が混ざり、その時々に応じてひょっこり顔を出す。そこに「標準語」はない。なぜなら、すべての人間が同じように様々な要素の混ざりあった言葉を発して私にぶつけてきているのだから。

言葉はそういうものだ。食べたものがあなたであるように、得た言葉が私である。その土地に同化しようと努力し、咀嚼して自分のものにすることもあるだろう。それでも、あなたの使う言葉は「標準語」ではなく、あなただけの言葉だ。ふたつとない。死ねば消える言葉。

そうでなければ、やってられん。