Nu blog

いつも考えていること

美術館

4月の緊急事態宣言時は、東京都も大阪府も美術館を閉館させられた。あの時印象的だったのは、国立美術館は都や府の配下にないからと開館しようとしたことだった。国と都や府の連携がチグハグだった。また、自分とこのボスが言うから閉館するor開館する、というどうしようもない状態が腹立たしく思えた。

できることはせいぜい、この閉館に感染予防の効果があったのか検証してほしいと要望を出すくらいなのだ。たぶん大したレスポンスなどなされないに違いない。

そんなてんやわんやな今年上半期に行った美術館で、印象的だったものをピックアップしましょう。 

国立近代美術館「眠り展」。眠りをテーマに国立美術館から作品をピックアップする豪華な展覧会。2020年のパンデミック騒ぎは、私たちにとって今や夢か現かわからないような1年だったと言える。「眠り」をテーマにしたこの展覧会はそうした批評性を持っていた。眠っている状態が平和なのか、あるいは死に近いのか。目覚めることができないでいるような気持ちにもなる。荒川修作の「死なないための葬送」を久々に見た。たぶん大学生以来だから、10年ぶり。懐かしい友人に会ったような気分。東京で出会えるなんて、と撫でたくなった(許可なく作品に触ってはいけません)。

東京国立博物館「日本のたてもの展」。何を言っているかわからないと思うのですが、建物がぱっくり割れていて、もうそれだけで楽しいですよね。国宝や重文の建物の修理のために作られた1/10模型などを展示したもので、だから内部がわかるようにぱっくり割れたりしているのである。建築というのは技術の継承なのだとしみじみ感じる。国立科学博物館での同展示を見逃してしまったのが悔やまれる。こちらでは近代建築、例えば帝国ホテルや霞ヶ関ビルディングが取り上げられていたらしい。見たかった。

サトエ記念21世紀美術館「寺井力三郎展」。遠かった。しかし行った甲斐があった。小さいながらも居心地の良い美術館である。寺井力三郎の朦朧とした点描、という温かみと郷愁、そしてどこか冷徹なリアリズムのある作品もすごかった。これから人気出ると思う(予言)。

練馬区立美術館「電柱絵画展」。練馬区立美術館らしい、渋い展覧会。絵画における電柱は、近代化の象徴であり、かつ画面にリズムを与えるモチーフとしてこれまでさりげなく登場してきた。そういう特集が成立することに着眼したことがおもしろい。そういえばずいぶん前に都知事が唱えていた電柱埋立ては進みませんね。我が家周辺だけなのかな、進んでないのは。

渋谷パルコ「ドラえもん一コマミュージアム」。ドラえもんの一コマ一コマをドアップにしたら、絵画的に耐えられることを明らかにし、提示する展示。確かに、構図とか、表情とか、漫画的表現がシュールな絵画として成立していて、おもしろかった。そして、何より可愛かった。帰りに食した天ぷら「たかお」がお値段お手頃で、美味だったのでおすすめです。渋谷に行ったら「たかお」。覚えました。 

SOMPO美術館「モンドリアン展」。日本では23年ぶりの個展である。てことは次も四半世紀くらい見られないのかもしれない。うわー、それってなかなか楽しいな。30代でみるモンドリアンと50代でみるモンドリアンに何を思うか。というのも、モンドリアンが今知られているような新造形主義の作風になるのは実はずいぶん晩年のことなのである。本展ではそれらのスタイルの前夜、象徴主義的だったりキュビスム的だったりする作品がメインで、すでに色彩のリズム感などに面影はあるものの、想像するようなモンドリアンとは異なっている。自分の考え、時代の要請をキャッチしながら作るべき絵画を求めて追求する。追求するということは変化し続けるということだ。四半世紀後にもしまたモンドリアン展があったら、自分がどう変化できたかを測るものとして、楽しみにしたい。

東京都現代美術館「マーク・マンダースの不在」。タイトルがカッコいいので、もうそれだけでいいような気がする。とはいえ作品もカッコ良かった。崩れていくような顔の彫刻など、静謐な空間が観客を取り巻く。静謐さは緊張感だけでなく、どこか楽しみにも溢れている。満喫した、という言葉ぴったりな展示だった。

2121「トランスレーションズ展」。久々の2121で、もしかしたら5年ぶりくらいかもしれない。分かり合えないことをわかる、というテーマのもと開催された展覧会。そのテーマへの親近感から見に行きたくなった。どうもここ最近、人間は「わかりあえる」と思いすぎな気がする。あるいは「わかる」ことへの欲求が強い。たとえばコロナだってそうで、科学で感染は抑えられると思っているし、科学的なことを主張すれば人は従うと思っている。でも実際はさまざまなファクターが絡み合って、報道とかでは「補助金がなかなか出ないから営業再開した」みたいな簡単なお話にされるわけだけれど、そこにいたるまでにもっといろいろあるはずなのに捨象してしまう。結局ポジショントーク的な、私の立場からはこれしかありません、の押し付け合いになっていて、この「私の立場」について考えればわかりますよね?みたいな話になる。みたいなことをこの展覧会自体は言いたいわけではないのだけれど、そんなことを考えた。人の気持ちにせよ、立場にせよ、法律にせよ、報道にせよ、すべてコミュニケーションは翻訳であって、誰かの発した言葉を受け取る側は受け取る側なりに変換する必要がある。その時に生じる誤解や誤読こそがコミュニケーションで、それを許容せずに「分かり合える」などと思うことは避けたいのである。分かり合えないことをわかり合いたい。

森美術館「アナザーエナジー展」。NHK日曜美術館」で三島喜美代さんが取り上げられていたが、どの作品もエネルギッシュで、迫力と「やむにやまれぬ」感があり、強さを感じた。女性であること、現在高齢であること、という作家のチョイスをどう捉えるかは人によるだろう。ある意味否定的に「女性で高齢であることを理由に選ぶ必要はあったのか」などということもできるだろうが、そうでなくても男性の作品ばかり展示されがちな昨今、どこかの美術館が女性ばっかり取り上げることになんの問題があろうか。むしろ女性作家とまとめられることに女性作家側が戸惑いを覚えることはあるだろうなと思う。作家らはどう考えても女性かどうかに関係なく芸術家として作品を作ってしまったからである。そのことをむしろひしひしと強く感じる展示だった。スザンヌ・レイシーによる「玄関と通りのあいだ」という作品がなんだかんだ記憶に残っている。ブルックリンの通りを歩行者天国みたいにして、そこら辺ダイスに座ってわいわい話し合うというプロジェクトで、議題は人種や性別といった普段語りにくいこと。これについてみんな思いっきり語り合っているし、聴衆も聞き入っている。名もなき人が語り合う。民主主義の当たり前を作り出したような感じ。日本でも、どこか住宅街でこれをやったら、どういう話題でどう盛り上がるだろうか、と気になった。

オペラシティ「ライアン・ガンダー展」。面白い試みに満ちた展覧会だった! キャプションを反対側の壁に展示したり、そもそも白黒の作品ばかり展示していたり、あるいは照明を落として、観客に懐中電灯を渡し、それで作品を照らして鑑賞するなど、初めてのことばかり。特に懐中電灯片手に断片的にしか見えない展示を見るのは面白くてたまらなかった。色々と制約もあるだろうが、ぜひいろんな美術館で同様の展示をやってほしいと思う。常設されている作品もすっかり見え方が変わる。

 

このほかにもさまざま美術館には行っておりますが、疲れたので割愛。

下期も行きたい展覧会やアートイベントが盛り沢山である。忙しい。

ところで、コロナの時代の後、美術館にはぜひトークイベント、それも一方的に聴衆が聴くだけの会ではなく、それぞれに話し合うような、そんなイベントをやってほしいと思った。対話の場を作ることが、求められているのではないかと思うのです。