2016年を振り返ろうと、年の瀬らしいことを思った時に、なぜか朝ドラのことがよぎった。
なぜなのか自分でも分からない気がしたけれど、いや、12月26日放送の「べっぴんさん」で主人公すみれの夫、紀夫くんが朝礼だとかなんだとか相変わらずスベっているのを見たら、書きたくなったのだ。
朝ドラは、一週間の中で浮き沈みを作るので、月曜〜木曜あたりはとても沈ませる。この沈ませ方がなんだか時折、不愉快なのだ…。
ちなみに、不熱心な視聴者ながら自分の認識を書いておくと、紀夫君はずっとスベっている。
戦争前は寡黙で、寡黙な人は優しい人に見えがちだが、その実ただのヘタレで、戦争から帰ってきたらヘタレに意固地が加わっていて、人前に出てぶっ倒れるし、仕事が軌道に乗りかかっているすみれに家庭に入ってほしいと言い出し、かと思ったらすみれの仕事を手伝うべくキアリスに入り、上述のとおりまたしてもスベりまくっているのだ。
しばらくこんな感じでスベらされるんだろう。たぶんどこかで挽回のチャンスがあるはずから期待しているが、いまのところなんとかわいそうな人なのか…。
まあ、物語の中の人間がヘタレだろうが、別に知ったこっちゃないのだけれども。
さて、今年の朝ドラはどんなものだったかと思い返せば、2016年の初めは波瑠主演の「あさが来た」(脚本・大森美香)の後半がまだやっていた。新春一発目がふゆと亀助の恋話だったのでよく覚えている。
4月からは高畑充希主演「とと姉ちゃん」(脚本・西田征史)、10月から芳根京子主演「べっぴんさん」(脚本・渡辺千穂)という順番で放送された(ている)。
どれも実在の人物をモデルにした作品で、「あさが来た」は明治期の、後二編は昭和期の、それぞれビジネスを描いており、現代の働く女性に対する確実なアピールがされていたと思う。
朝ドラは2種類あると考えている。
一つは今年の3作品のような、「立身出世」もので、女性が苦労しながらも仕事に、子育てに頑張る話。一代記を描くもので、最後、歳をとるパターンは大抵こちら。「カーネーション」とか。
もう一つは、子供の頃に憧れた職業になるために努力するという「夢追い」もの。この「夢追い」ものは最近だと「まれ」や「あまちゃん」「ちりとてちん」が当てはまって、学生くらいの年齢からスタートしてあんまり歳をとらず、人生がこれからも続いていくような終わり方はこれ。
今という時代は「夢追い」もののようにモラトリアム期を描くものよりも、「立身出世」ものの中で家族や仕事に悩む姿を描く方が、共感を得られるのだろうか、と今年の3作品を観て思う。
確かに「夢追い」ものとぼくが分類する「まれ」なんか、時代性を考えてみても、どう共感すればいいのか分からなかった。
もしかして、ぼくの歳のせいだろうか…? かつて「ちりとてちん」にはいたく感動したものだけれど。
物語はそれを受容する人のコンディションも重要で、だからこそ間口を広げて、誰が読んでも登場人物の誰かに共感できるようにして物語に入り込んでもらうものだが(あるいはその反対に、共感を拒絶し、物語の面白さのみで引っ張ることもあるだろうけれど)、特にテレビドラマや映画というメディアはその時代に合わせて「今だから感じられる共感」を狙うことで、即時的な視聴率や話題につなげる必要がある。なので、「夢追い」ものがここ最近少ないのは、「受けない」という判断がなされているのだろうと思う。
そういう観点からしても、「あさが来た」のあさのようなパワフルな女性は、現代に即しているように思えたし、かつ、玉木宏演じる夫との関係もどこか現代的なものがあり、観ていて気持ち良かったのだろう。
最終回で、玉木宏のもとに駆け寄る波瑠という分かりやすい感動シーンでそのまま感動しちゃうくらい、あの夫婦関係は素敵だった。
まったく別件だが「あーさー」という山本高広のモノマネもおもしろかった。
一方、「とと姉ちゃん」がどうしても楽しめなかった!
どこをどうやっても主人公の思考に追いつけず、感覚がわからず、どうしたってイライラしてしまうので、文句ばかり言ってしまう。
「ていねいな暮らし」的なものをテーマにした雑誌なのに、主人公らの暮らしが丁寧な感じじゃなかったり、お弁当屋さんやタイプライターのくだり、ミッチーやぐっさんらの粗雑な扱い等々、物語上、何も残さなかったあの時間はなんだったんだろう、と思ってしまった。
登場人物らへの共感はもとより、設定や話の進め方がとにかく不思議なドラマだった。一週間ごとの短編というか、この一週間が次の一週間に繋がらない、なんというか、無駄の多いドラマだった(無駄がダメと言うことではない)。
少なくともなんであんなに雑誌が売れるようになるのか、よく分からんかったです。あと、坂口健太郎と真野恵里菜とピエール瀧と平岩紙と浜野謙太は、演じる役の先行きが不明だったため、ほぼ役者の個性だけで乗り切っていて、反対にそれが良かったです。
べっぴんさんは、前述のとおり紀夫くんのスベりぶりにハラハラしている。潔くんもなあ…。たぶん、年明けたらいろいろいい方向に進むのでしょう。大抵の朝ドラは、年明けたら少しめでたい雰囲気に浮上させるものと相場が決まっている(勝手な意見)。
あと、全体に関西弁に違和感を感じるけれど、そこはNHKのことを全面的に信用したい。
今年の感想というより、ただの愚痴ですね。だいたい、熱心な視聴者でもないくせに…。
しかも、ここまで書いておいてなんだが、朝ドラのことを「逃げるは恥だが役に立つ」ほど分析したり、今の我が身を振り返る材料にするのは難しい。
どちらかと言えば、朝ドラには、数年後にそういやあの頃は何々してたなあ、なんて振り返る「思い出の一素材」、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」のマドレーヌみたいな一面がある。
たとえば、
小学四年生の時に見ていた「私の青空」は今思えば、かなり重い話で、あまり理解できていなかった
とか
小学五年生の時に見ていた「ちゅらさん」のゴーヤマンとかゆんたくとか愉快な仕掛けがたくさんあって、そして菅野美穂が綺麗だった
とか
中学一年生の時の「てるてる家族」の石原さとみは可愛かったのに、その当時は誰も評価していなかった(その後、民法の「ウォーターボイズ2」や「H2」に出た時も評判が芳しくなくて、ぼくはかなりの変人扱いを受けた)
とか
中学三年生の時の「ファイト」は前半の本仮屋ユイカが不幸すぎて(一家離散、不登校等々)、衝撃的だったなあ
とか
高校二年生の時の「ちりとてちん」で、落語「愛宕山」の「野辺へ出てまいりますと春先のことで、ひばりがぴーちくぱーちく、れんげ、たんぽぽの花盛り、やかましゆうゆうてやってまいります。その道中の陽気なこと~!」という言い回し、渡瀬恒彦かっこよかった…
とか
高校三年生の時の「瞳」は榮倉奈々が主人公で、おじいちゃんをやった西田敏行とはその前に「ジイジ~孫といた夏」という短編ドラマで共演していて、ぼくはなぜかそれを見ていたのを思い出す、あと満島ひかりが出ていた…
とか
大学一年生の時、「つばさ」の多部未華子が無理矢理埼玉を舞台にされた挙句、視聴率が悪かった
とか
大学二年生の時の「てっぱん」のてっぱんダンスとはなんだったのだろう
とか
大学四年生の時の「カーネーション」は尾野真千子も綾野剛、ほっしゃん、娘三人も全員素敵で、完璧な朝ドラだった
とか
社会人一年目の「梅ちゃん先生」は研修所でみんなで観て、そういえばスマップが主題歌だった
とか
そんなことを、その頃住んでいて家やクラスメートなんかが陽炎のように、幻想のように沸き立ち、思い出すのである。
最後に、主題歌について。
「あさが来た」はAKB48「365日の紙飛行機」、「とと姉ちゃん」は宇多田ヒカル「花束を君に」、「べっぴんさん」はMr.Children「ヒカリノアトリエ」。
毎日聴くものだから、どうしても覚えてしまうのが朝ドラ主題歌の面白いところ。
今でも好きでもないのに「あさーのそらをみあーげて」とか「ってそーんなにたんじゅんじゃなーい」とか歌えてしまう。
それらはどうでもいいとして、宇多田ヒカルの「花束を君に」は8年ぶりのアルバム「Fantôme」の素晴らしさもあって、今年最もよく聴いた楽曲の一つだ。
死と向き合った、と評されることもあるようだが、それと同時に「神」と向き合っているように、ぼくには思える。
科学や合理性が太宗を占める日常において、宗教の存在感は低下していて、「神」と向き合う機会が限りなく少なくなっている。
ドラマや物語でも「家族・大切な人の死」は描かれても、「神」の存在はあまり語られない。
宇多田ヒカルはそんな、いわば「非日常」である神の存在を、日常の中で歌い上げているように感じられて、それがぼくにとって感動だった。
いつかノーベル文学賞を取るんじゃないか、なんてのは言い過ぎか。しかし、以下のような平凡な言葉に、オディロン・ルドンの晩年の花の絵のような彩りを与えられるのは、宇多田ヒカルくらいではないだろうか。
世界中が雨の日も
君の笑顔が僕の太陽だったよ
今は伝わらなくても
真実には変わりないさ
抱きしめてよ、たった一度 さよならの前に
(宇多田ヒカル「花束を君に」より)