DJみそしるとMCごはん、この名前自体は前から知っていたのだけれど、ここまで何度もリピートして聴くことになるとは…。
「おいしいものは人類の奇跡だ」をコンセプトに、くいしんぼうHIPHOPとして食事、料理を題材とした楽曲を制作し、2013年にデビュー。
ぼくは2014年くらいからツイッターか何かでその名前は見かけていて、その年の暮れ頃に伊藤洋志監修『小商いのはじめかた』という書籍を読んだ際に存在を認知し、興味を持って「きゅうりのキューちゃん」や「マカロニグラタン」といった楽曲に触れたことは覚えている。
その時ははっきり言って「変な人や…」程度の認識から抜け出せず、楽曲そのものへの関心もすぐに下がってしまった。素人感が強すぎて、楽曲のすばらしさにその時は気づかなかった。
聴き始めたきっかけは安藤裕子とのコラボ楽曲「霜降り紅白歌合戦」。
これがすごい。
大げさではなく、2010年代の「今夜はブギー・バック」はこれだ。
2000年代に「今夜はブギー・バッグ」に匹敵する楽曲は現れなかった、と言ってしまうと2000年代に発表された様々な名曲たちを貶めてしまうようではあるが、あえて言い切ってしまえば、2000年代に「今夜はブギー・バック」は現れなかった。
しかし、2010年代、とうとう「今夜はブギー・バッグ」に匹敵する名曲がここに現れたのである!
あまり「今夜はブギー・バッグ」を推し過ぎても仕方がないが、あの曲のすばらしさは「今この一瞬感じる光、という儚さが凝縮されていること」と一言でまとめてみたい。
十代から二十代にかけての、自分が何者でもないからこそ何者にでもなれると思い込めていた無邪気さと、その儚さをあの一曲は見事に凝縮しているのだ。
それは十年経とうが二十年経とうが古びず、きっとこれからもたくさんの人の「終わらない日常」という「物哀しさ」に対して響く楽曲だろうと思う。
それに比して、「霜降り紅白歌合戦」には「終わらない日常」に対して「哀しさ」を感じていない。
それよりも、日常を自分のものにしようと「闘う」のである。
泣けないんだよ
泣けないんだよ
食べて戦うわたしの毎日に
負けないんだよ
負けないんだよ
わたし闇の台所のスター
これが2010年代の思想だ!と声を大にして言いたい。
大胆に、90年代から2000年代を「ブギー・バッグ」時代と括ってしまえば、それは男性による「日常への哀しさ」の時代だったのである。大学時代まではわーわーはしゃいでいても、就職を機につまらない日々を過ごし始める。あるいは仕事に熱中して、「生活」から逃避する(女性に生活=家事・育児を押し付ける)。失われた二十年と言われる長い停滞状態において、男性の生き方、働き方は高度経済成長やバブルから変えられなかった。「ブギー・バッグ」が小沢健二とスチャダラパーという男性によって歌われたのは(しかも文科系男子)、その時「日常への哀しさ」を感じ、歌えたのは女性ではなく、男性だったからなのだ。
もちろん「ブギー・バッグ」に共感する女性も多くいた、いるだろうが、どうしてもあの曲の歌詞は男性目線であって、そうした男性目線を内面化せざるを得なかった、という背景があってのことだろう。
しかし、ようやく2010年代に入り「霜降り紅白歌合戦」時代においては、女性が「日常」との関係を歌うことができるようになったのである。しかも、ぼくのような男性の共感をも得る形で!
ようやく働き、ステーキを食べ、日々を懸命に生きることが歌となった。歌と言うのは、すぐに「祭り」「フェスティバル」になろうとするものだが、DJみそしるとMCごはんと安藤裕子は、地に足をつけて「日常のしんどさ」と「食事という日々の活力」を歌ったのである。
そして、これは女性が歌っているがしかし、男性にも「日常のしんどさ」「食事と言う日々の活力」を再認識(あるいは初めて認識するのかもしれない…)させる。だって、当然の感覚なのだ。
「日常からの離脱と諦め」が「ブギー・バック」であれば、そんな時代はもう終わった。これからは「日常」と真正面から闘い、疲れ、しかし諦めることなく明日に向かうために「食事」する。
それって、とっても普通のことだ。
寝て、食って、働く。こんな基本的なことが、やっと2010年代に入って、女性にも男性にも、誰しもにできることとして歌われるようになった。
そう考えて、ぼくはこの「霜降り紅白歌合戦」が、日本の音楽、文化に対して、とても重要な一曲なのではないかと過剰なまでに高い評価を与えたいのである。
そこからDJみそしるとMCごはんへの興味が再燃、「ジャスタジスイ」を聴いてみたらば、またしても感動したのである。
グッバイ実家 はじまる自炊
慣れない日々 いずれ日常にかわり
おかわりも自分でせい YEAH
という冒頭の歌詞で分かるように、実家から出て、初めての一人暮らし、初めての自炊。ぼくにはそんな日々に身に覚えがある。今だって「グッバイ実家」をした身であって、かつて母親がしてくれたように誰かが食事を作ってくれることはもうないのである。
神はアダムに向かって言われた。
「お前は女の声に従い
取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 お前に対して
土は茨とあざみを生えいでさせる
野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る
土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」 (創世記3章17-19節)
なーんて、創世記を引くまでもなく、ぼくたちは毎日毎日何か食べなくちゃならない。そして何か食べるために働かなくちゃならない。「業」である。
そして、もっと「業」なのが、自分の手で食事を作り出せないことである。
自炊。食材を切って、味付けをして、焼いたり、煮たり、なんやらかんやら…。働いてお金を得たはいいものの、そこから食べ物を得るのに、いつもどこかの誰かが作ってくれたお弁当で終わらすばかりで、それで本当にいいのか?とぼくは思ってしまう。
すくなくともどこかに自分の手が入ったものを食べたい。その欲求を、ぼくは誰かに否定されたくない。
「ちゃっと刻んで はっと混ぜる」だけでもしたい。
ああ、母はどのようにしてあの料理を作ったのだろう、と思いながら味の素の回鍋肉を作ってみたら全く同じ味がしたりするのが、自炊のおもしろさ。
いやいや、お母さん、分かってます。「さぼってなんかない」よね。今になってようやく分かりました。だって、そっちの方が簡単に、安定しておいしいのが作れるもん。
なんていうか、そうやって毎日を生きることを肯定できるようになる。こんな素敵な音楽があるだろうか。
ぼくは「ジャスタジスイ」の「さぼってなんかないよ」の大合唱でいつも涙腺が緩む。
日常を肯定できることが、できるようになったなんて…、時代なのか、自分の年齢なのか、ぼくはただただ感動する。
その他にも「のり弁」も素敵だ。動画がないので、直接ご紹介できないのが残念だが、まずバックトラックが美しい。歌詞も
LONELY PAIN, NORI BEN
ロンリーペインとのり弁、歌になると響きがとてもいい。
時間差でやってきた 自画自賛
今朝、作った自分に言えばいいじゃん
いただきますとごちそうさん
ほんのり やる気出た
こういう日常賛歌にめちゃくちゃ勇気をもらえる*1。
いつかライブに行きたい。こんな感じらしい。
SAY ロー!
ちなみに、Google Play Musicで楽曲が聴ける。
よもやDJみそしるとMCごはんが配信されてはいないだろう…、ととりあえず検索したことが今のフィーバーを呼んだ。
ほんと、Ki/oon Musicさん、配信してくれて、ありがとうございます。
ぜひぜひ、みなさん、DJみそしるとMCごはんを聴いて、料理してみたり、食事することそのものの価値を再発見してみたり、あと「霜降り紅白歌合戦」は2010年代の「今夜はブギー・バッグ」であることを広めてください。
参考