ここまで来たら最終話の感想も書く。『逃げるは恥だが役に立つ』について。
最終話だけでも、もう3回観ている。
「これからも物語は続く」終わり方で、ぼくの生きる日常とつながっている感覚がしっかりとあって、ぼくはこういう物語の余韻が大好きだ。
ぼくが以前「思い込み」と評したものを、最終話で石田ゆり子演じるゆりが「呪い」と喝破し、その「呪い」が氷解、雪解けの時を迎え*1、未来へと向かっていく。最終話はそんな展開だった。
平匡の感じていた「一人で生きるしかない」という思い込み=呪いはみくりによって、そして、みくりの感じていた「社会に役立てない私」という思い込み=呪いは平匡によって、それぞれに解決していく。
しかもその関係に「性愛」を持ち込まなかったことが秀逸だ。
「なぜ結婚したのか(結婚しようと決めたのか)」と、結婚する(した)人間に対して、割と気軽に質問されるものだが、この質問の回答で「素晴らしい!」と思えたことってほとんどない。
「かわいかったから」「かっこよかったから」などと聞けば、外見だけかよと突っ込んでしまうし、「頼りがいがあったから」「優しいから」などと聞いても、付き合う理由ならまだしも結婚には足りない気がするし、ましてや「子どもができたから」や「そろそろかなと思って」とか「一緒にいるのが当たり前だから」などという答えもどこかしっくりこない。
しかし、このことに対して「生きていくことはめんどうくさいもんなんだと思います。それは1人でも2人でも。どっちにしてもめんどうくさいなら、2人で一緒に過ごすのもいいんじゃないでしょうか」という平匡のセリフは、ぼくにとってしっくりくるものだった。
「生きるのは面倒」「生まれたから生きている」「死ぬまでの暇つぶし」という感覚は、あまり世間で認められた価値観ではない。これが公にされて、そして地位を得たことに感動する。
このニヒリズム的な感覚は、徹底した「生の肯定」「業の肯定」であって、決して生を貶めるものではない。「どうせ面倒」「どうせ死ぬ」からこそ良い時間を過ごしたいのだ。不老不死ならば、今日一日に価値はないが、「どうせ死ぬ」「どうせ面倒」な私達であるからこそ、今日一日に、あなたと過ごす時間に、かけがえのない価値が生まれる。
それが結婚する理由だ、なんて、飲み会の場で答えられない。
結婚に「性愛」が入り込まなくなったことについて、上野千鶴子は以下のようにツイッターで書いている。
「逃げ恥」の契約にセックスが含まれないのは不自然。結婚とはセックス契約なのに。一回当たりのセックスコストを誰が誰に支払うのか?家事と同じくセックスも「愛の労働」、しかも「無償労働」だ。こういう議論はほぼ「不払い労働論」で尽くされている。おぞましい議論だが、現実がおぞましいのだ。
— 上野千鶴子 (@ueno_wan) 2016年12月22日
上野千鶴子がとらえた結婚というのは
自分の身体の性的使用権を生涯にわたって特定の異性に対して排他的に譲渡する契約のこと
であった。この捉え方は、家父長制を基礎とした国家側の目線と言える。国家=日本では、女の産んだ子の父は誰かを明確にさせ、一人一人の出自を父の系譜によって確かにさせたいから、婚姻制度及び戸籍制度を現行の形で維持している。
社会秩序の維持において、どこの男の子供か分からない人間がいないようにしたい、という倫理観がこの国にはある、のだ。
上野千鶴子はそもそものその国家的価値観・倫理観に異議を呈しているので、先のツイートにおける「逃げ恥における契約結婚とセックス」の関連は、国家的には本来認められない関係性ではないか、と疑問に思ったゆえのことだろう。
しかしながら、その国家側からの「結婚観」と現代を生きる人々の「結婚観」に少しの差異があることを示したのが「逃げ恥」なので、上野千鶴子の疑問は「逃げ恥」の感想としては的外れに見えてしまう。
「逃げ恥」における結婚観は先にも述べた通り「性愛」や「家族」、ましてや「国家」や「家父長制」が先にあるものではなく、個人が抱える「生きることの面倒くささ」のシェアにある。
だからこそ、最終話になって「家事の分担」などというこの世で最も「面倒くさい」ことがテーマとして語られる。決して「子どもがほしい」とか「親との関係」とかに転げない。むしろそれらは一切触れられなかった。まずい脚本であれば、最終話に「親バレ」なんかを持ってくることだって、考えられただろうに。
私たちの結婚観は少しずつ変わりつつある。「家族の形成」(裏テーマとしての「限定された性愛」)はもはや私たちにはなじまないものとなっている。
と、なれば、そもそも役所に書類を提出する必要なんて、本来的にはない。「子どもができたから」役所に書類を提出するくらいしか、積極的に「婚姻」する理由はないのかもしれない。
そのあたりの「損得勘定」は、それぞれの人がやるべきで、人間関係を維持するのに役所に書類を提出した方がコスパがいいと判断する人もいれば、そちらの方が割に合わないと感じる人がいてもいいし、そうしたそれぞれの判断に口をはさむ必要はない。
「いろいろあって、それでいい」、これこそが上野千鶴子がかねてから言っていたことで、まさか、上野千鶴子の倫理観において「自身の身体の性的使用権は特定の異性とのみ結ばれるべきである」などということは有り得ない。上野千鶴子は「自分の身体は自分のもの」だと徹底して主張している。
結婚、他人の生き方について、この「自分は自分」「他人は他人」であることをはき違えてはいけない。
そのこともまた「逃げ恥」は東京フレンドパークのパロディとして、「挙式」「子だくさん」「専業主夫」(他にも「DINKS」なんかが見えた)などが未来の選択肢としてあることを見せた。まるで舞城王太郎の小説のようである。
何があっても、「ライフスタイルに合わせて、模索する」。そして、たとえすれ違うことがあっても「ハグ」することで、二人はその存在を確かめあえる。存在していることを感じる手段は、最終的には身体しかないのだ。
田嶋陽子もまた、このドラマを「つまらない」「まだこんなことをやっているのか」と評したと聞く。慧眼である。
「しかも、問題なんにも解決してないし、主婦の家事労働代は30年前に25万円って厚生労働省から出てるのに。その間政府は何もしてなくて、まだこんなことしてんのって。何にも伝わってないじゃん。この30年間のみんなの努力が」。
田嶋陽子氏、逃げ恥にかみつく「まだこんなことしてんの?」 (デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
下記のブログの言葉を借りたい。
田嶋さんが逃げ恥に「まだこんなことしてんの?」と怒ったという記事を読んで、私は「彼女が怒るのも無理はない」とは思いました。
なぜかというと、田嶋さんは今の日本の社会でする「結婚」は「女が不利になりがち」だということにずっと怒りの声を上げてきた人だから。
たいてい女性の方が名字が変わる。夫の転勤で仕事を辞めるのは妻ばかり。出産で手放したキャリアは戻らない。専業主婦は寄生虫とまで言われる。
田嶋さんはそういう「女性が結婚でこうむる不利益」についてずっと「変だよ!」と訴えてくれている。身を粉にして「もっと社会全体の仕組みを変えてそういうの無くしていこうよ!」と訴えてきたのに、30年経ってみて世間が「面白い面白い」と褒めたたえているドラマが、事実婚での契約結婚という「既存の結婚制度の裏ワザ」みたいなのを駆使してこちゃこちゃやってる男女の話だった。
そりゃ彼女の立場なら「こんな裏ワザ見つけて喜んでないで、根本的な解決のために社会を変えるように動かなきゃでしょうが!!」という怒りが湧くのも無理はない気がします。
正直言って、田嶋陽子の語るとおり「何も解決していない」。確かに平匡はみくりの心の扉を叩き、開いたが、じゃあ実際の家事分担はどうなったのか。そういう実際上のことは「模索は続く」という言葉によってするりと逃がされて、描かれていない。
分担はなくなったのか、平匡は食事を作るようになったのか、そのあたりは見えてこない。結局、家事負担はみくりに重くのしかかっているかもしれない。となれば、結婚にまつわる「女の負担」にかかる問題は、何も解決していないのではないか?
さらに、そもそものそもそもを言えば、平匡のように家族会議において言い訳もせず、声も荒げず、相手の負担を第一に考え、自分の譲歩できるラインを見極め、冷静に話し合いを進められる高収入の男性がいるのだろうか。この男性がいることを前提に「結婚」にまつわる「女の負担」にかかる問題の解消が描かれたに過ぎない=絵に描いた餅なのではないか。
しかし、この解決されていないように感じる問題は、「平匡の存在」によって解決するしかない。つまり、一人一人が「平匡」になろうと努力するより他ない。
絵にかいた餅を見て、自分の手で餅を作るのだ。
平匡、えらい...今までのことを総括して、相手のことをかんがえて、相手の必要としていることに近づこうとしてる。これができる男の人、めっちゃ少なくない?ああ~今日は心から平匡を褒めたい! #逃げ恥
— tamic (@tamic53) 2016年12月20日
最終回の時もちょこっと書いたけど、「いや、高学歴で経済的背景がある男って星野源みたいなあんな可愛い存在ではないよ。みくりに経済的バックボーンがないかぎり『逃げ恥』みたいなああいう幸福なパワーバランスにならないよ」っていう意見、ある種の経験がある鍵垢の意見で放送中に何度か見ました。
— cdb (@C4Dbeginner) 2016年12月22日
にしても、最終話の星野源は小沢健二である。オザケンすぎて、「オザケンやないか!」と始終、突っ込んで悶えた。
「呪いを解き放つ」という運動が、”ハグ”や”ドアをノックする”、もしくは風見(大谷亮平)によるユリちゃんのおでこへの”キス”といったアクションによって、しっかり可視化されているのも映像作品としての今作の優れた点だろう。ちなみに余談だが、ドアをノックして、ダッフルコートまで着る平匡に、小沢健二のイメージが重ねられているのは明白。
「ドアをノックするのは誰だ?」は他の男と付き合っている女の子を略奪する「世界一早口なラブソング」だった。
「誰かにとって特別だった君をマーク外す飛び込みでぼくはさっと奪い去る」のである。
20歳の頃のぼくは「男性の目線で、女性をハントする歌」として受容していたが、今、改めて聞けば、そんな奪い去る部分よりも「僕はずっとずっとこのまま一人で生きるのかと思ってたよ 爆発するぼくのアムール 君の心の扉を叩くのはいつもぼくさって考えてる」というひたすらな気持ちに癒される。
小沢健二-ドアをノックするのは誰だ?(LIVE AT BUDOKAN)
さて、最後に。石田ゆり子演じるゆりの語る「呪い」が頭から離れない。誰にでもあって、そしてなかなか解けない(生涯解けないかもしれない)強力なものだろう。
立ち向かうよりも、逃げる方がいい。そんなメッセージを与えてくれたこのドラマは本当に素敵だ。もしかすると呪いは「国家レベル」のものもあるのかもしれないのだから。
最終話を「上手くやれると思っていた新婚夫婦のすれ違い」を描いたようだと評したツイートがあった。
#逃げ恥 拗らせて風呂にこもるみくり。これはお互い理解しあってると思ってて、自分たちは友達のような夫婦になれると思ってる男女が、結婚後1年くらいかけてこじらせる状態を、すごい早回しで要点押さえて見せてくれた感じですね。
— かな ドラマ鑑賞アカ (@kanadorama) 2016年12月20日
全国の「平匡さん」「みくりさん」が呪いから解き放たれ、「どうせ死ぬ」人生を豊かに生きていけますように。「私たち」のこれからの生き方を「私たち」は互いに見守っていけますように。