緊急事態宣言が出て、はや半月が経つ。
人の流れは絶えずして、というところか。休日散歩していたら、街に人の多いこと。みなさんも散歩しているのだろう。
実際にゴジラが来て家や職場を破壊したならば言われなくても避難するが、目に見えないウイルスの侵入に対して私たちの反応は鈍い。政府の反応は輪をかけて鈍く、企業は動けないままジリ貧。日本列島コロナ音頭、誰も踊らず、土俵割る。
といいつつ、とうとう週の半分以上が自宅での勤務になった。8時間をどう過ごすか、自分自身を試される日々である。「休暇」と言われていたら、私は遊び呆けただろうから、会社は偉い。
しかし、自宅の良いところは気兼ねなく音楽を聴きながら作業できること。この暗い気分を下支えしてくれている音楽は、まずtofubeatsの初期の傑作「水星」。ラブリーサマーちゃんのカバーがいい。
めくるめくミラーボール乗って
水星にでも旅に出ようか
いつか見たその先に何があると言うの
きらきら光る星の狭間で二人踊り明かしたら
もっと輝くとこに君を連れて行くよ
ラブリーサマーちゃんの「202 feat.泉まくら」や「私の好きなもの」もいい。「私の好きなもの」は月曜から日曜まで、曜日を歌っているだけなのにすごく良い。なんや、そら。
202号室 さようなら
この部屋の春の匂いも思い出になるでしょう
相対性理論や宇多田ヒカルなどを想起させるメロディ、歌詞、歌声である。新曲「心ない人/どうしたいの?」も出たところ。注目していきたい。
そして、小沢健二の「彗星」。
今ここにある
この暮らしでは すべてが起こる
儚い永遠をゆく 波打ち砕ける
あふれる愛がやってくる
その謎について考えてる
高まる波 近づいてる
感じる
あるいは「薫る(労働と学業)」。
君が僕の歌を口ずさむ
約束するよ そばにいると
私たちはこれまでも生き抜いてきた。これから先も生き抜いていこう。
サンダーキャットのアルバム「It is what it is」やミツメの初期作「三角定規」も聴いている。在宅勤務を乗り越える。
詩も読んでいる。災害時ほど詩はしみる。崩壊した社会の隙間、ヒビに水が流れ込み、雑草が芽生える。その雑草が詩だ。意味にまみれた空虚な言葉を打ち砕くように、意味を超えたリズム、躍動でもって言葉を蘇らせる。アスファルトの下に土があるように、私たちの日常の言葉の土台に詩がある。
松本圭二の「ロング・リリイフ」。私が現代詩を最もよく読んでいた2005〜2010あたり、彼は1990年代以降を象徴する重要な詩人と言われつつ、著作のほとんどが絶版という伝説の詩人だった。
そうして僕らは 鮮やかなアクリル室の皮膜のなかで 日々の没落を暖めていた
その腐敗物は
恋人の夢の彼方で匂っている
熟れ落ちた柘榴なのだろう
僕はシオカラトンボの飛行に誘われるまま ぬるい湿林に嵌まってしまう
切り取られた空のゆるまりのなかで なおもゆるまってゆく
柘榴
親密な体臭に絆された溺愛の白雲がひかれてゆく ゆるく ほとばしる
絨毯爆撃がしたい
ロング・リリイフ
戦意の喪失を引き継ぐために
僕は無傷の卵巣を培養している
この叙情性。
そういえば、かつてすばるに掲載された「あるゴダール伝」は今でも時折思い出す。「海を見に行け」。最近読んだ四元康祐の「偽詩人の世にも奇妙な栄光」も詩人を描いた小説として類するものだった。これらの小説を我が事のように思えるのが、かつて詩人を夢見た少年の果てとしては、気恥ずかしくなりつつ、なぜか誇らしげに思ったりする。
あと「一九三〇年モダニズム詩集」もよかった。一冊の詩集も出さなかった三人の詩人たちを追った一冊。
昨年に引き続き勉強。今年は学芸員や司書に関連する教科だけでなく、簿記など実学も学んでいく。サラリーマンのくせに不勉強でさっぱりわからないのだ。考えてみれば私は総務・人事畑なので、営業、経理、ITに疎いんである。日々勉強。