diary

いつも考えていること

持たざる者(所有の呪縛)

人間関係において、大切な人もいれば、どうでもいい人もいる。

他者をどのように捉え「人間関係」を構築するか。それは、その人にとって何が最も大切なことか、に繋がってくるのだと、僕は思う。

cakes.mu

我々男子校病患者は、「恋愛対象」or「俺の人生とはほぼ無関係」の2つのフォルダしか持っていません。つまり、恋の対象とするか、道路にあるポスターの中の女性と同じとするか、しか分類できないんです。これは本当に女性に失礼な話なのですが、実のところ我々も「女友達フォルダ」を持っていないことにかなり苦しんでいる。
この男子校出身者のどことなく的を射たような気のする「悩み」は、中島らもの言うところの「聖女」と「娼婦」という女性の捉え方に通じるものだろう。
女の子のほんとうの実態というものを知らない僕の中では、女性の存在は観念的にくっきりと「聖女」と「娼婦」の二極に分かれてしまっていた。中間がないのだ。(「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」)
ちなみに、中島らもは灘中、灘高という男子校である。
僕も男子校出身者であり、その感じ方が分からなくもない、いや、分かる。
大学に入ってすぐ、女性がいる!ということに驚いたし、何をどう話せばいいのか分からなかった。それまで男だらけで話していたことが女性に伝わるとはさすがに思えなかった。
そしてもしも女性と二人きりで話すことがあったらば、翌日にはなぜか中学高校時代の同級生から「お前、昨日女と話してたんやってな」などと言われ、ただ話していた、というだけの情報が燎原の火のごとく広がったりする。わけわからんね。
一ヶ月もすればそんなこともなくなるが「彼女ができたらしい」「童貞を卒業したらしい」という類の話は尽きない。
 
しかし男子校出身者に限らず、世間一般の男性にも当該2フォルダしか持ち合わせない人は少なくないのではないか?
 
たとえば、男子校出身か否かに関わらず、彼女と別れても、すぐ次の彼女ができる人とというのがいる。
どんな技を使ってるのか、と思うが、たぶん簡単な話だ。
その人はたぶん、グループであれなんであれ、常に様々な交友関係のチャネルにアクセスしており、マメに交流している。
そうした交友関係の中で関わる女性は、その人にとって全て潜在的に彼女候補であって、彼女がいる間はそうは振る舞わないけれど、状況が許せばモードを切り替えているだけ、なのだと思う。
無論、興味のない人とはそもそも関わらない。
万が一関わらなければならなくなったとしても、淡々と"興味のない"態度を取る。そういう女性がよもや意見をしようものなら、その場合に至って明確に排除の姿勢をとることになる。
つまるところ、あえて下品に表現すれば「抱ける女」としか交流しないわけである。嫌な言い方かもしれないが、裾野を広げれば、必然、成功率は広がる。
恋愛工学でも同じこと書いてました。
「試行回数を増やす」という表現をしていたけれど、要はいわゆる数打ちゃ当たる。
下手な鉄砲ではなく、さらに鉄砲の腕(いかにセックスまで持ち込むか、であっていかに人を大切にするか、の技術ではないあたりが滑稽である)を磨きましょう、というのが恋愛工学の発想であるわけだ。
 
反対に女性との付き合い方が分からない、彼女が欲しいが作れない、という人も同様に、女性を極端な2分類してしまっている。
つまり、自分に近い人はすべて「恋愛対象=聖女」であるがゆえに上手く話すことができず、上記同様「それ以外」に目をくれることはない。
なので女性と話すことがそもそもない、という状態に陥ってしまうのだ。
 
これら男性が何を大切にしているのか。
「所有」だ。
 
次から次へと彼女を作る、作ろうとするのは、女性を所有することへの欲望である。
女性を所有していない期間があれば、不安になってしまうのだ。
反対に「モテない人」というのは、女を「持てない=所有できない」ことに悩んでいる。
どちらにせよ、女性という「人間」と関係を構築できないことを悩んでいるわけではない。自分が、他の男と比べて「持っていない」ことに悩んでいるのだ。
 
関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

 

どうして男性は「所有」という価値基準を獲得するかと言えば、「家父長制」の影響だろう。

家庭において、母が子供と相互にコミュニケーションしようとするのに対し、父は自分の「所有」物である子どもに対し、規範や命令を一方的に押し付けるだけである、というのは、我が身を振り返って大変しっくりくるものである。

父は妻や子を所有したものであるから、家に帰ればご飯が出され、お風呂は沸かされ、晩酌をし、眠り、朝起きれば何の気兼ねなく自分のルーティン通り準備し、仕事へと向かう。

妻は、経済的依存等諸々の事情から、夫から見放されることを恐れ、所有されている方が楽な状態となっている。息子は、いつか自分はこの父の所有から解放され、自分もまた妻や子を所有するのだと目論む。娘は、父になろうとして、なれないことを思い知り、諦め、男に所有されざるを得ない状況へと追いつめられる。

ここまで図式化すると、あまりにも重たすぎるが、しかし、所有という価値基準は「家父長制」を軸に再生産されている。

 
所有の観念を捨てることで、男子校出身者の悩みとされているものも同時に消滅すると思う。
フォルダに分けて考える、とか聖女・娼婦という観念だとか、人間に対して行う行為ではない。
目の前にいる人を、自分にとってどういう価値があるのか、で判断するのではなく、どういう意味があるのか、を探し出そうとすることで、「人間関係」をようやく真に構築するスタートとなる、と思う。
 
すべて上記のことは、僕自身の反省である。
 
めにうつる全てのことはメッセージ
 

主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』(マタイによる福音書25章26-30節)*1

 

*1:お金を持っていない人はさらに奪われ虐げられる、という世俗的な教えではなく、才能のある人はその才能を発揮すること(タラントンとは、タレント=才能のことである)で、より才能が人々に役立てられる。一方才能を持ちながら、それを発揮せずにいる人は、何の役にも立たない。たとえ少しの才能であっても自分のできることをせよ、というたとえ話。あえて本稿に即して言えば、所有という概念でしか人間関係を構築できない=持たざる者はより貧困な人間関係しか構築できないであろう、と言えるかもしれない。