人間関係において、大切な人もいれば、どうでもいい人もいる。
他者をどのように捉え「人間関係」を構築するか。それは、その人にとって何が最も大切なことか、に繋がってくるのだと、僕は思う。
我々男子校病患者は、「恋愛対象」or「俺の人生とはほぼ無関係」の2つのフォルダしか持っていません。つまり、恋の対象とするか、道路にあるポスターの中の女性と同じとするか、しか分類できないんです。これは本当に女性に失礼な話なのですが、実のところ我々も「女友達フォルダ」を持っていないことにかなり苦しんでいる。
女の子のほんとうの実態というものを知らない僕の中では、女性の存在は観念的にくっきりと「聖女」と「娼婦」の二極に分かれてしまっていた。中間がないのだ。(「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」)
どうして男性は「所有」という価値基準を獲得するかと言えば、「家父長制」の影響だろう。
家庭において、母が子供と相互にコミュニケーションしようとするのに対し、父は自分の「所有」物である子どもに対し、規範や命令を一方的に押し付けるだけである、というのは、我が身を振り返って大変しっくりくるものである。
父は妻や子を所有したものであるから、家に帰ればご飯が出され、お風呂は沸かされ、晩酌をし、眠り、朝起きれば何の気兼ねなく自分のルーティン通り準備し、仕事へと向かう。
妻は、経済的依存等諸々の事情から、夫から見放されることを恐れ、所有されている方が楽な状態となっている。息子は、いつか自分はこの父の所有から解放され、自分もまた妻や子を所有するのだと目論む。娘は、父になろうとして、なれないことを思い知り、諦め、男に所有されざるを得ない状況へと追いつめられる。
ここまで図式化すると、あまりにも重たすぎるが、しかし、所有という価値基準は「家父長制」を軸に再生産されている。
めにうつる全てのことはメッセージ
主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。
だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』(マタイによる福音書25章26-30節)*1
*1:お金を持っていない人はさらに奪われ虐げられる、という世俗的な教えではなく、才能のある人はその才能を発揮すること(タラントンとは、タレント=才能のことである)で、より才能が人々に役立てられる。一方才能を持ちながら、それを発揮せずにいる人は、何の役にも立たない。たとえ少しの才能であっても自分のできることをせよ、というたとえ話。あえて本稿に即して言えば、所有という概念でしか人間関係を構築できない=持たざる者はより貧困な人間関係しか構築できないであろう、と言えるかもしれない。