2015年7月、安保法案は、衆議院において100時間を超える議論ののち与党自民党、公明党の賛成多数により可決、現在参議院において議論され、今後参議院で可決されなくとも、衆議院での再可決が確定的であり、成立する見通しである。
僕の働く霞ヶ関界隈はデモで騒がしく、暑い夏、政治の季節の様相である。
無論、僕は安保法制に反対だ。というか、そもそも自衛隊の存在は違憲、日本は一切の軍備を持ってはならないし、攻め込まれてきたら殺されよう、と主張し、人には極左あるいは虚無主義者と指弾されてきたのである。
なによりも僕が注目しているのは、「学生」の動きである。
2011年3月11日の東日本大震災の際も、学生の動きは大変興味深かった。
あの震災の時、「何かしたい」みたいな学生がわらわらと湧き出て、ただただ「何かしましょう」と呼びかけ続ける、みたいなのがあって、関西にいる学生の僕としては、その何かしたい、という熱い思いへの嫉妬と反動としての冷笑的な嘲笑等、様々な気持ちがないまぜとなりながら、それを見ていた。
その後、募金活動でお金を集め、被災地に行って「何かしよう」となって、「募金活動してる間にバイトした方がお金が集まるのでは」といった批判があったりした。
個人で何かする、素人だけど何かしたい、という態度に対して非常に厳しい流れがあって、組織やプロによる動きに任せる、それに参加することが推奨されたように思う。それは阪神淡路大震災以降の教訓だったのかもしれない。あるいは事に当たって自らを学生という責任を免除されたような肩書きを称することへの反発があったのかもしれない。
今回、安保法制に対しては「SEALDs」なる団体が立ち上がった。
これがなかなか、新聞でも取り上げられ、デモでも中心的存在のようである。
「自由と民主主義のための学生緊急行動」という団体名のようで、学生は緊急に動くのが好きだなあ、と思う。
以下のスピーチに関して、いろいろ論争があるみたいなので、ちょっと調べてみた。
しかしながら、最後のスピーチにははっきり言ってちょっと引いた。国会議員や高橋哲哉先生、また関西のSADLの人のスピーチなどの最後にSEALDSの女性のスピーチがあったのだが、この「安倍首相への手紙」というスピーチはかなり稚拙なものだったと思う。私が一番「これは全然ダメだ…」と思ったのは、「帰ったらご飯をつくって待ってくれているお母さん」がいることを平和な世界の象徴として訴えていたところである。これは自分の経験に基づいているのだろうが、全体的にものすごく家庭を守る母(「両親」ではない)とその子どもというイメージに依拠しており、はっきり言ってこのスピーチで提示されている「平和な家族像」というのはむしろ首相とその一派が推し進めているものに近い、母親が家にいて子どもを育て、家事や炊事をするという保守的・伝統的な性役割に基づいた家族モデルへのノスタルジーだと思った。首相への手紙という形式なので、わざと首相が喜びそうな家庭モデルを持ってきているのか、それともあまり何も考えないで経験を書いているのかはわからないのだが、こういう安倍的家庭観を前面に出して「安倍を倒せ」とか、全然コンセプトが通ってなくてスピーチとしては稚拙にすぎると思うし、女性性とか母性がしばしば政治活動でプロパガンダに利用されることを経験してイヤになっているほうからすると聞いていて本当にうんざりする。
私はけっこう、デモに行く前はSEALDSの人たちではなくその周りで「美人もたくさん参加してる」ことを売りのように言う人たちに問題があり、学生は若いからそういうことがよくわからなくても仕方がないだろうと思っていたのだが、このスピーチを聞くと、人目を引くことを目的に安易に「女性性」をアピールしてしまう土壌はSEALDSのほうにもあるんじゃないかと疑ってしまった。
要約すれば、女性のスピーチの一ヵ所である「家でご飯を作って待つ母親」という幸福のイメージをめぐっての論争である。
その幸福のイメージの是非ははっきり言って、どうでもいい。幸福のイメージに是非もクソもない。
それよりも、個人の幸福を語ることで戦争を止められるのだろうか、
家でご飯を作って待つ母親であろうと、他のどのような幸福であろうと、幸福は戦争を止められるのだろうか、
ということに僕は関心を覚える。
全文を読めば、スピーチにおいて、幸福を語ることが欠かせないものだというのは分かる。
そして、幸福が個人的な感覚、つまり母親や祖母といった家族との関係と接続されることも個々人の感覚であるから、当然そういう幸福もあるだろう。それを幸福と呼ぶことへの疑義は提出し得ない。
「戦争に反対する。なぜなら幸福を守るため」という主張の中で、私的な幸福のイメージを語ることは必須、欠かせないものだろう。分かる。
しかし。
幸福のイメージを語ることが、むしろ「幸福を守るためにこそ戦争が必要である」と主張する論理を退けえないのではないか。
安倍首相はそうした論理で武装しており、スピーチで語られた幸福こそ安倍首相にとっても守りたいものであり、結果、安倍首相にとってスピーチは追い風、という印象を僕は持った。
安倍首相は安保法制の必要性について、
国民の命と平和な暮らしを守り抜くために不可欠な法案だ
と語っている。
「平和な暮らし」(=幸福)のイメージは、安倍首相の中にも当然あって、それを「守り抜く」ためには戦争しかないと従前から主張しているわけである。
どのような「平和な暮らし」というイメージも、彼にとって何ら新たな意味を持たない。
恐ろしい人である。
安倍首相のさらに恐ろしいところは、同一の道筋からまったく別の結論を導き出す奇手を、事も無げに用いるところである。
集団的自衛権の行使を容認していないと解釈されてきた砂川判決を用いて、そっくりそのままの論理でもって結論において「集団的自衛権は容認される」と読み替える事ができる首相なのである。稀有な才能だろう。
安倍首相の理屈ではどうしたって
「平和な暮らしを守る」→戦争しない
ではなく
「平和な暮らしを守る」→戦争する
となってしまうのであって、その土俵に乗っても平行線、永遠に分かり合えない。
まったく別の論理で否定することこそが求められると思うのだ。
それだけでなく、「平和な暮らし」という共同体を基盤としたイメージは、共同体を守るために排除の論理を導入する可能性を持っているように思う。まさにそれが安倍首相の論理が帰結するところなわけだが。
組織は、本来個人の寄り集まった 集団でしかないはずなのに、いつの間にやら組織そのものが自立して存在するかのように振る舞い始める。
日本という国、地域という集団、会社という組織、学校という団体、親族や家庭という団体。
個人に先立ち、組織それをこそ守らなければならない、という逆転現象が起きるのを、みんな知っているはずだ。
組織を守るために個人が犠牲になる、そうした描写は善悪どちらからの目線においても描かれてきた題材の一つである。
三田誠広の芥川賞受賞作「僕って何」(名作!)において、運動家からプチブルと批判されている男が全共闘への夢を語る場面がある。
「自分でものを考えようとしないで、すぐにセクト色に染まりたがる奴らが多すぎるよ」
彼はセクト=組織を信頼していない。
「”全共闘”といってもね、これまでの他の大学の学園闘争を見ていると、いくつかのセクトの寄り合いにすぎないんだな。そんなものは”全共闘”じゃない。一般学生が闘争の主体とならなければね。・・・・・・・僕はひとつの”夢”をもっている。”民衆による前衛なき革命”の雛形が、この大学で実現されるのではないかという夢なんだけどもね。(略)君のようなセクト色に染まっていない人間が、個人として闘争に参加し、その総和としての運動体すなわち”全共闘”を推進するのでなければね」
あくまでも個人が集まり、その主張のかたまりが社会を動かすことを夢見ているわけである。政党政治の否定などにも結びつく思想と思う。
しかしながら物語においては全共闘はセクトの寄り集まりと化し、最後には、
「あれはE派で用意した食糧だから、D派にはやれないぜ!」
というように、わけあえばいいパンすらも分け合わない事態を招く。
組織が先だった結果、「個人」という単位を放棄してしまうのである。
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個人が集まり作られた「組織」はいつの間にやら個人ではなく「組織」を守ろうとする。
家庭という小さな単位も組織だ。
その組織の「幸福を守る」論理は、「戦争」という理屈なき暴力に対し、むしろその行使を幇助する可能性を秘めている。
大まかに2点(その理屈は効かない/それは彼の理屈を助け得る)から、戦争反対を唱えるに当たって、「幸せな暮らし」のようなイメージを用いるべきではなかった、と僕は思うのである。
では、どうしたらいいのか、というと、やはり個人しかない。
個人の権利を守ること、それこそが戦争をしてはならない理由ではないだろうか。
幸福な家庭は似通っているとはトルストイのアンナ・カレーニナの有名な冒頭の一節であるが、いや、そんなこともない。幸福にも様々な幸福があるのだろう。
そうした多種多様な幸福を共通項として掲げるのは現代においては無理だし、無意味だし、むしろ利用されるだけだ。
戦争と幸福は結託する。
だが、戦争と人権は、絶対に結託し得ない。戦争は、いや、いかなる暴力もすべて加害者被害者双方の人権を侵害するものである。それをこそ主張すべきだ。
私が戦争に参加すること、あるいはこの世界の「誰か」が戦争に参加すること、そのすべてを、一人一人の人権を死守するために否定する。
国なり会社なり家庭なりを守るためではなく、私が(誰かが)嫌なことをさせられることが嫌なのだ。
徴兵制が話題になることがある。「そんなことはあり得ません」と説明がある。これはつまり「私は戦争に行きたくない」「プロ(軍人)が戦争に行くのは仕方がない」という流れを生み出しかねない。こんな愚劣な質問は必要ない。
むしろ安保法制が通るのであれば徴兵制も導入すべきだ。自分はもちろんのこと顔の見える誰かが自衛隊にいることで、戦争は避けたいという思いが日本社会に広まり、まさに戦争の抑止につながるからだ。
徴兵制がどーのこーのと、愚劣な質問している場合ではない。
暴力に身を晒されている、あるいは暴力を行使せざるを得ない状況に放り込まれている人がこの世界にいることが、今まさに人権侵害が行われていることこそが、問題なのである。
野党は対案ではなく廃案などとカッコつけているが、ちゃんちゃらおかしい。自衛隊に関わる法律すべての廃案をこそ提案し、代わって自衛隊を国内におけるレスキュー隊にしてしまう法律を提出する、それこそ対案となるだろう。
安保法制に反対する人らが「幸福な家庭を守るため」などという僕からすればどうにも間の抜けた理屈で闘っているのだから、僕は国会前にも政治にも期待できないでいる。
運動のすべてを見ているわけではないので、一でもって十を判断するわけにはいかないけれど、共通の土台として「幸福の維持」を共有している様子がうかがえ、まったく賛同しかねる。
どうか、仕舞いには絆や連帯を掲げないよう、気をつけてほしい。それはむしろ戦争へと至る道だ。