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いつも考えていること

『「ネオ漂泊民」の戦後』を読んだら『「欲望」と資本主義』を読むことになってさらになぜか『ニーチェ入門』を読んでいた話

1.序ー大人になれば

僕は大人だろうか。友だちのあいつは、大人だろうか。上司の、三十代四十代五十代のあの人は、大人だろうか。父親は、大人だろうか。母親は、大人だっただろうか。

大人とは、何なのだろうか。成熟した人とは、どういう人なのだろう。

たとえば僕の母校のシンボルは三日月だ。これには意味があって、

私たちは今あらゆる面で不完全な者であるが、新月がしだいにふくらんで満月となっていくように、絶えず向上していきたいとの願いをこめています。(HOME|学生活動支援機構 HOME|校章の意味

だそうだ。

「今」というのが引っかかる。いつか「完全な者」になるだろうか。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(「マタイによる福音書」5章より)

  

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(「コリントの信徒への手紙一」13章より)

  

2.「『ネオ漂泊民』の戦後」

中尾賢司の『「ネオ漂泊民」の戦後』(以下、「ネオ漂」)を読んだ。

連合赤軍について興味を持っていた時にたどり着いたブログ「kenzee観光第二レジャービル」のファンで、過去の文芸ネタや小沢健二、J-POPネタ、アイドル論も愛読していて、その総括として、とてもおもしろかった。

kenzee観光第二レジャービル

Amazon.co.jp: 「ネオ漂泊民」の戦後 アイドル受容と日本人: 中尾 賢司: 本

  

本書の書評をしようと思ったけれど、止めた。何度か書き直してみたけれど、どうしようもない文章になったので、この本から考えたこと、最近考えていることをひっくるめたい。どういう結末になるのか、分からない。

いきなり余談なんですが、やたらツイードのジャケットが欲しいなあと思っていたら、ユニクロに売っていて、ユニクロで売られるってことは他の人も欲しいと思っているっていうことなんだな、と安心するようでいて、マーケティングの軌道線上に自分がしっかり着地してしまったことに対する恥ずかしさを感じた。これもまた、現代の一つの心象風景なんじゃないだろうか、と思った。

 

さて、以下、少し小さめの文字は本書の概説である。こういった批評書にネタバレというの発想は基本的にないと思うが、かなり詳細に書いているため、必要に応じて読み飛ばしていただきたい(僕はこういった概説や続く引用等が購買意欲につながるものと考えるため、積極的に書いている)。

 

 「ネオ漂」の構成は二部に分かれる。

Ⅰ部はAKB48やおニャン子クラブから見る近代的自我。

・森進一の「おふくろさん」や「こんにちは赤ちゃん」から母親像の変容を解き、田中康夫の「なんとなく、クリスタル」による女性の主体の「情報化」を暴く。

江藤淳の長編評論「成熟と喪失」から井上陽水はっぴいえんど村上春樹村上龍による戦後のサブカルチャーと故郷喪失の関係及び母の崩壊と子ども期の無限の延長について告発する。

・AKB48等アイドルから一回性の人生(自然主義文学的な人生)とゲーム的リアリズム(反復する人生)の構造を導き、またこの構造の源流であるアイドル1986年の岡田有希子の死から「前近代の女」(=おニャン子クラブ国民年金三号被保険者の生き方)と「近代の女」(=渡辺美里男女雇用機会均等法による自立した生き方)が現れたことを示す。

・現代のアイドル(=現代の女性)は、「前近代の女」=おニャン子クラブによって表された「無反省」=「無価値でただ愛される存在」と「近代の女」=渡辺美里によって表された「反省」=総選挙や「RIVER(AKB48の曲。中尾氏いわく「酒がまずくなる歌」「体育会系の鬼コーチのような説教だけが続く」歌)」という二つの「女」によって引き裂かれている。

・「残念(=残念なイケメンとか残念な美人、というような語法の残念)」を許容するコミュニケーション、処世術によるポスト近代的自我を明らかにする。

 Ⅱ部は連合赤軍指導者・永田洋子から見る近代的自我。

連合赤軍の指導者であった死刑囚・永田洋子のやたらに明るい川柳を出発点として、J-POPがポジティブ思想を獲得する道のり(またしても渡辺美里、そしてAKB48のRIVER)、そして永田の川柳及びJ-POPに潜む「ネオ漂泊民(=漂泊民、つまり故郷から離れ都会へ流入した団塊世代の次の世代以降のこと)」の心情を解き明かす。

・ネオ漂泊民の心情は渡辺美里尾崎豊桜井和寿といった作家によって表現されるが、そこには近代文学の特徴である「風景の発見」があり、永田のやけに明るい川柳とは近代の目線だった。

・ネオ漂泊民の心情である前向きさは、そのままキャラクターとしても読み解くことができ、記号的に「なにかにつまづき」「意識を変えることで」「前向きに進んでゆく」構造を持っている。渡辺美里による同じ主旨の楽曲や辛い経験を何度も歌う西野カナ過呼吸になりながらもその逆境をはねのけ歌い踊るAKB48の前田敦子

・「人間的であろうとする」近代がなぜかキャラクター的、記号的な表現を誘発するパラドックス

・またキャラクター的、記号的になる近代人は、インターネットやSNSを通じ、自分自身を情報化し、内面化していく。

永田洋子に話は戻る。逮捕された後、永田洋子は様々な消費をされる。容姿にコンプレックスがあるとされたり、「永田洋子とはあたしだ」と言う人が出てきたり。「美人ではないが愛嬌があった」=アイドルとしての永田洋子

・絵も川柳も稚拙で、革命も事件の総括も終わらない、すべてが未熟な永田はまさしくアイドルであり、「母」になれない存在である。

・ところで、あさま山荘に立てこもった赤軍派たちに、実の母親たちがマイクで投降を呼び掛ける。日本中が見守る「感動の全体主義」の源流。場所は南軽井沢郊外のレイクニュータウン、それからの日本を覆う歴史性も場所性もない均質なファスト風土の原型。赤軍派は母親に向かって発砲するが、それは何も打ち抜くことができないのであった。

(あとがき)

・ネオ漂泊民の母はいない。ニュータウン育ちにとって心動く故郷はない。しかし、どこか遠くの知らない駅の裏手にできた、真新しい人工的な住宅地の光景に、なぜか懐かしさを感じるのであった。

 

続いて、印象的だったフレーズをいくつか紹介する。

 

社会が近代化するなかで、男たちは農村から都市へ移行し、定年までをサラリーマンとして生きる人生モデルを引き受けていったが、女たちはこのような急速な近代化の波の中で適切な居場所を与えられず、「自然」たる「母」を壊すことになる。(「ネオ漂」p.48)

 

おそらく典型的な団塊世代の上野には見えていたのだ。「母」が崩壊した以上、女はいつまでも「大人」として社会から認証されず、「子ども」を擬態し続けなければならない、と。それは前近代の農耕社会や「家」に紐付けられ、「母」であることを強要される人生より残酷で、孤独な生き様であろうことを上野は見通していた。(p.51)

 

つまり問題は、消費するヲタの側は、まるで文化祭の前日を何度も繰り返す学園アニメのように推しメンを変えながら青春の一ページを何度も生きなおすだろうが、当のアイドルは年をとり、身体的にも成熟してゆく生身の実存的存在であるという点だ。ここには必ず齟齬が生じる。(p.64)

 

自然主義文学のような一回性の人生を生きる)アイドルは死ぬ。(ゲーム的リアリズムの人生を生きる)ヲタは死なない(p.69)

 

つまり、これからの日本人の多くは、あらかじめ「残念な人生」を生きることを宿命づけられた人々といえるかもしれない(p.118)

 

 こういった事象(引用者註=江藤淳のいう「身体の情報化」。アイドルの情報がインターネット、SNS、AKBであればエケペディアという人物事典のようなサイトを通じ、自身のデータが更新、蓄積されそれを内面化していく状況のこと)はアイドルに限らず、一般人でもLINE、ツイッターフェイスブックといったSNSを通じて同じようなことが起こっているはずである。こういった点から鑑みても、現代を生きる女性とは、多かれ少なかれ、広義の「アイドル」なのである。江藤は半世紀近く前にこの状況を感じ取り、「近代」が女性に強いた抑圧を正確に指摘し、これを嘆いた。(p.154)

 

絵を書かせても稚拙、川柳を詠んでも稚拙、しかし、そんな稚拙さ、未熟さを肯定したいという心情が、少なくとも私たち日本人のなかにある。

戦前にはギリギリ残っていたであろう、村落共同体の確固たる基盤を放逐され、足場を持たず、捉えどころのない「近代」をつかもうともがきながら高度経済成長を経た、わたしたち日本人。そのような日本人の典型として永田洋子は存在する。永遠に成就するはずのない革命や事件の総括という課題を背負った、つまり永遠に未熟であることを運命づけられた数奇な人生を生きる者に対して沸き起こる心情というものが日本人にはある。(p.177)

 

3.私たちは何を求めているのかー終わりなき欲望の果てを求めて

僕の最近の関心はもっぱらこれである。 

個人的に「俺は何がしたいのか」と考えることはもちろん、大文字の「私たちは何がしたいのか」(この「私たち」とは小さなサークルでは家族、広げて会社(その中でもよく飲む面子から部署から全体まで大小様々だろう)、さらに広げ日本社会、果ては世界、人間全体にまで思いは広がる)ということも考え事の一つだ。

仕事をし始めて思うことの一つに、この行為に「ゴール」はあるのか、という問題がある。

「この行為」とは、自分が行う作業=会社の経済活動のことであり、重ねて自分の生活のことである。

会社は業務を改善しようとする。より働きやすく、より利潤を最大化できるように、より良くを求めて、直接であれ間接であれ、僕は働いている。

この行為に終わりはあるのか。どこかで「良し」とされないのか。されない。

さらに、僕の生活に終わりはあるのか。このどうでもいい仕事の果ての死がそれか。それは怖い。しかし、これを成し遂げれば「死ねる」ことなんてあるのか。ない。

「何がしたい」のか、誰にも見えていないのである。

さっぱりだ。

どうしたら「達成」か、ぜんぜん見えない。

言い換えれば準拠すべき規範が見当たらない。

近代とは未完のプロジェクトである、ということなんだろうか(未読)。

ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」――終わりなき近代を生きるために | Communication and Deconstruction

それでまあ、あまりに悩んでいて、本屋を歩いていたら『「欲望」と資本主義』(以下、「欲望と資本主義」)という本が目に入ったので、これを読み始めた。

Amazon.co.jp: 「欲望」と資本主義-終りなき拡張の論理 (講談社現代新書): 佐伯 啓思: 本

1993年に出版されたものであり、内容に古さを感じることはあっても、その考えに古びたところのない本だと思った。

この本では資本主義を「欲望を拡張し続ける運動」として取り扱っている。

そして、欲望とは「フロンティア(神秘的なもの、未知なもの)の拡張運動」である。

消費者と企業がその運動の両輪となり、資本主義を、欲望を、拡張していくのである。

フロンティアは初め、ヨーロッパにとってのアジア、つまり「外」に対するものであった。それがアメリカにおいて自己、「内」に対するものへと変貌し、人々はモノ、消費によってしかセルフ・アイデンティティを確認できない大衆社会を生み出した。

言い換えれば

消費は、いつまでも続く「わたし探しのゲーム」となる。(「欲望と資本主義」p.161)

となり、ナルシシズム消費、記号的消費という言葉となる。

93年当時、ここで資本主義の拡張、欲望の在り処は止まり、限界を感じつつ、「情報資本主義」の可能性、あるいは「「新しいもの」をめぐる常軌を逸した競争という近代の強迫観念から解放される可能性」(p.215)、または「まだ見ぬもの」への想像力が産業技術から解放され、「文化や知識の領域に取り戻す可能性」(p.218)を思い、論を閉じるのである。

結果、現代の資本主義は、情報資本主義によって良くも悪くも生き長らえさせられていると言っていいと思う。誰も常軌を逸した競争からは逃れられず、また文化や知識の復権もなかった。

この世界はまだ「果てしなき欲望の拡張」をぬるぬると続けている。

「果てしなき欲望」は、「ネオ漂」で論じられる「永遠に未熟であること」に繋がる。

アメリカにおける大衆社会について佐伯はこう言う。

アメリカは、たえず若返る国家であり、永遠に成熟を拒否した若い文化の国家であるという観念と無関係ではなかった。「若さ」それに「変化」、「挑戦」がアメリカを象徴ふる価値観となり、それがまたアメリカ的な自由の表明となった。古いものを守るのではなく、新しいものを求めることがはるかに重要になった。(「欲望と資本主義」p.150)

いつまでも満たされず、果てしなく求める。得たと思っても、次の瞬間には失っている。

解決策はなく、「残念」であることしかできない(「足るを知る」なんて考えは近代にない)。

その上で欲望はモノ、消費の形でしか現れないというのは、由々しき問題だ。 

アイドルにせよファッションにせよ何にせよ、消費することでしか自分を見出せない。

ここで三種類の人間が現れると思う。

一つは近代人=消費によるアイデンティティを守り、ニヒリズムに陥る前に次の消費へと移る人。

二つ目はニヒリスト=消費によってのみ確認されるアイデンティティに幻滅し、ニヒリズムに陥る人。

三つ目は現代人=消費によるアイデンティティの確認を拒否し、次の物語を紡ぎ出す人(幻想)。

三つ目を超人とでも呼べばまさにニーチェの思想だ。

僕は超人、いや「現代人」とはどんな人か、に興味がある。それがたぶん、今を生きる人にとって(つまり近代人及びニヒリストにとって)最も重要なことだと思うからだ。

いかに消費という「反復される」セルフ・アイデンティティの確認から抜け出るのか。

僕はその鍵は、アティテュードを消費から生産へ、仕事場から生活へ、生の営みを復権するとにあると直感している。

今は誰もが消費者で、マルクス主義者の思い描いたような肥え太った資本家なんてどこにもいない上に、かといって自分の生活を自分だけで組み立てられる人もいない(まるで誰もが肥え太って動けなくなってしまったかのようでもあり、誰もがずっと誰かに奉仕し続けるサーバントになったようでもある)。

誰もが「知らない誰か」の作る何かに寄りかかって、大樹の陰にいかに入るかに苦心してる。

ちょっとでも陰からはみ出たら、灼熱に当てられ死んでしまうかのようだ。そして実際、陰からはみ出た人たちにセーフティネットはなく、社会によって殺される。

こりゃおかしい。

ここまで豊かな社会になって、感じる不安は生き延びること、サバイバルへの不安なのだ。

就活に失敗したら、病気になったら、会社が倒産したら。夜中に目が覚めたら二度と寝付けなくなるような不安ばかりだ。

しかし、それはまとめてしまえば、死ぬまでちゃんと消費できるか、という近代人の欲望でしかない。

この欲望が正しいのか疑わなければならない。

長生き、健康は良いことか、自然なことか。消費による楽しさ、喜び、承認は良いことか、正しいことか。便利なこと、効率的になることはいいことか、当たり前のことか。

それらをダメだと一概に否定したいわけじゃない。でも、疑わなければ、いつまでも消費する近代人の路線のままではないか。僕は今、ルサンチマンに陥っている。

 

ここで僕の生煮えのニーチェに関する知識(竹田青嗣ニーチェ入門」)を披露すると、

ルサンチマンとはつまり、自分がこうしか生きられないという事実に対する心理的な反動形成にほかならない。「凡庸な人間」は、自分の存在のみずぼらしさの「原因」を過去(=「そうあった」)にたずね、それが「動かしえない」ものであることに怨念をもち、復讐しようとする。

(略)

要するに、「永遠回帰」のイデーは、生の一回性を利用して世界と生そのものへ復讐しようとするルサンチマンの欲望を”無効”にするのである。自分の不遇を、いわば世界と刺し違えることで晴らそうとするルサンチマンの欲望は「永遠回帰」によって無効化される。ルサンチマンの本質は時間への復讐であるが、無限の反復というイデーはこの時間への復讐を根本的に無化するからだ。(「ニーチェ入門」p.176-7)

とのことであり、なんだかここまでの議論と似通った言葉が登場してくる。

ちなみに、ジル・ドゥルーズはこのルサンチマンを無効とする「永遠回帰」をこう解釈する。「永遠回帰によって為されんと欲するごとくに、汝の欲するところを為せ」。つまり、

永遠回帰」の命法にしたがって、「いちどだけ」という条件で欲するようなものを取り払うならば、そのとき「永遠回帰」は、「反動的なもの」、「ニヒリズム的なもの」を振り払い、「肯定的なもの」だけを選択する「救済する<反復>」になるはずだ、ということである。(ニーチェ入門」p.171-2)

これは大きなヒントになる。

近代人は消費を反復する。この反復はルサンチマンから湧き出た欲望である。ルサンチマンは感情の反芻、恨みへの固執のことである。「もっとほしい」「あれだけの苦痛の労働を耐えたのだから、これを得て当然である」「同じ程度のあいつがこれを持っているのだから、自分も持ってよいものだ」というようなことが消費を反復する根本にある(これを書いてて、マイケル・ジャクソンの「this,this,this」という買い方のことを思った。あれなんか、見ていられない欲望の果てしなさを感じる→

マイケル買いとは - はてなキーワード

このルサンチマン的消費は、一度しかない人生への復讐そのものだ。

人生は一度しかないから、ここでこれを買わなければ二度と手に入れられない。一度しかない人生だから、他者を使い捨てにしても快感を得なければならず、使い捨てられた他者は消費する主体となってまた別の消費へと向かう。

いかにして、一度しかない人生を、真摯に生きるか。書いて気恥ずかしくなるようなことを次項で「変化する」ことをテーマに考えたい。

 4.私たちは変われるのかー自分だけの想像力を求めて

「MADURO(マデュロ)」という雑誌が創刊されたという新聞広告を見て、読む気はさらさらないのだけれど、広告の内容にびっくりして呟いたら、ツイッターを始めて5年目で、初めて100以上RTされた。

この雑誌は「ちょいわるおやじ」という言葉を生み出した岸田一郎さんが編集長だ。

ああ、あのおじさんか、と思ったと同時に「人は変われないんだろうか」と思った。

ダサいおっさんは「やんジー」になれない、ということではない。

岸田一郎さんが「かっこよくなる」ことを諦められないのか、ということだ。金を使うことを諦められないのか、ということだ。女好きでいることを諦められないのか、ということだ。あの奇妙な古臭さを感じさせる文体を諦められないのか、ということだ。

無理とかダメとか言いたいわけじゃないし、おっさんは死ぬまでおっさんね、みたいなことが言いたいわけじゃない。

「ネオ漂」において「身体の情報化」について論じられているが、それまでの自分の過去を否定することはできないのか、ということを考えたいのだ。

先ほどの「ニーチェ入門」に

「凡庸な人間」は、自分の存在のみずぼらしさの「原因」を過去(=「そうあった」)にたずね、それが「動かしえない」ものであることに怨念をもち、復讐しようとする。

 という一節があった。

なぜ自分が凡庸であるのか。それは過去にこういったことがあったからだ。自分が凡庸であることは変えられない。変えられないなら、いっそ世界は滅びてしまえばいい。と考えは転がっていく。

この「世界は滅びよ」というメッセージは言葉の通りではない。むしろ、「だから俺はこれでいいんだ」とか「だからみんなが悪いんだ」とかいう、開き直りのことと考えればいいと思う。

つまり、自分という過去の蓄積はもう変えられず、このまま死に至るまで過去から引きずった自分を演じきるだろう、という予感。

「自分」から逃れられず、「自分」を演じて生きている感覚。

当然「本当の自分」なんてものはそこにはなく、y=ax(a<0)という負の傾きを持つ一次方程式の変数xに年齢を代入し続けているだけのようだ。

映画「百万円と苦虫女」の蒼井優が、前科者としての自分から逃れられないように、「ショーシャンクの空で」のラストのようなリセットした人生を、僕たちは生きられないでいる。

たとえフェイスブックの過去ログを消したって、誰かを傷つけたことは消えない。

グーグルが忘れられる権利を尊重したって、自分の過去を自分が忘れることはない。

だから、超人、いや「現代人」とは何かを僕は再び考える。

新しい物語を紡ぐとは、その新しい物語とは何なのかはもとより、どう紡ぐのか、なぜ紡ぐのかすらはっきりしなければ、僕は観念的なことを考え、夢想しているに過ぎない。

前項で僕は「アティテュードを消費から生産へ、仕事場から生活へ、生の営みを復権するとにあると直感している」と述べた。

ニーチェの言う超人は「新しい価値(道徳・理想)の創造」を行う人のことだ。ニヒリズムを徹底し、ルサンチマンを排除する。

現代人もまた新しい価値、新しい道徳、新しい理想を創造、想像する者だと思う。

その新しさはどこにあるのか。

たぶん「ネオ漂」はそれを「残念」という様式かもしれないと推測し、「欲望と資本主義」では「文化や知識」の復権と解いた。

「残念」という様式は、たぶんその場しのぎのやり方に過ぎない。結局人をキャラクター化し、傷つかない自分を得るルサンチマンのやり過ごし方の一つでしかないだろう。そのことは中尾氏も指摘している。

それ(引用者註=周到に「残念」なキャラクターを設定し、演じること)はもはや、前近代でも近代でもない、ポスト近代の女性の自我なのであろうか。そして「残念」な自我が、果たして他者や自己を傷つけることはないのか。「残念」に生きるリアリティを見出すことは可能なのか。(「ネオ漂」p.121)

なので、僕は文化や知識の復権という発想を実に古臭いと思うと同時に、堅実な発想であると考える。

この文化や知識、というのは「芸術、神話、科学、建築」とまとめられていて、この単純さは示唆に富んでいるなと思うのである。

近代人、ニヒリストは資本主義の想像力(資本主義は人々の欲望を形に変えるという特殊な想像力を持つ)によって「生かされて」いる状態だ。

資本主義の想像力からはみ出てしまうと、死の危険性がある。

こういう時の戦略はまず逆張りだろう。資本主義の想像力から逃げる。

 

つまり、「自分の想像力」を信じることだ。

今、資本主義の想像力の中生かされている自分を振り払い、自分の想像力で生きる自分を想像することだ。

太古の人類は、必要に迫られて自分で生きていたわけだけれど、そんな原初的な生活に還れとルソーのごとく言いたいのではない。

僕の直観する「生産」とはパンを作ることではない。もちろん、パンを作る(食べ物を作る)こともしたい。自分で自分の食べるものを作れたらどんなに素敵だろう。

「生産」とは、資本主義の想像力を拝借して生かされるのではなく、自分の想像力でもって生きることそのもののことだ。

食べるもの、着るもの、住むところ、家、支え合う人。過ごすもの、過ごす人の顔がそこにあり、その人たちの笑顔が見え、その人たちと過ごす日々に意味があることが資本主義の想像力の外側だと思う。

ただ、いささかメタフォリカルないい方になるが、資本主義には、「故郷」だとか「大地」だとか「国家」といった固着するもの、過去や伝統や風土に対して執着する精神とは、どこか決定的に相いれないものがあるようだ。こうした「根っこ」につなぎとめられない「流れるもの」に対して強い親和性を持つことはやはり指摘しておくべきだろう。

「資本主義」は決して一ヵ所にとどまろうとはしない。たえず移動し、つなぎとめようとする動きから逃れてゆく。それは「家」から逃れ、「故郷」から逃れ、「国家」から逃れてゆく。「移民」という、ひとたび「根っこ」から身をひきはなした人々が資本主義の重要な担い手であったことは、単なる偶然とは思えないのである。労働力は商品になるや否や、「家」や「故郷」や「国家」から出てゆく。(「欲望と資本主義」p.187)

 資本主義は、人と人の顔が見えることを嫌う。人を孤立させ、人を恐れさせ、貨幣によってのみつなぐ。

もしそこで幸せになれたって、間違えた場所でつかんだ幸せはすぐ消える。

適切な場所を見つけること。

自分の想像力(=自分の欲望)を見つけること。

 

さて、本項の本題に戻る。

人は変われるのか。

分からない。本項では結局、それは分からない。

消費の反復に疲弊して、ニヒリズムに陥って動けなくなったのなら、現代人を目指す価値はあると思う。

過去の自分がどうであったかということは、消えない。

だからといって今の自分を否定する(=ルサンチマン)のではなく、消えないものを消えないままに、人生を肯定的に肯定する道筋があるはずだ。

どうすればいいのか、まだまだ分かっていない。

また前項の疑問に戻る。

いかにして、一度しかない人生を、真摯に生きるか。

そうと決めた時から、そうするしかないことは間違いない。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

5.素敵な欲望ー人間の欲望、人間の想像力

最近素敵な欲望を聞いた。

木村カエラだ。

10月25日、彼女の音楽活動10周年を記念したライブに行ったら、彼女はこう言った。

 

これからの私の夢は、大切な人たちとずっと一緒にいることです。

 

うろ覚えだから、間違ってたら言ってほしい。

もちろん、歌手である彼女の欲望が資本主義の欲望と結実しやすいことは言うまでもなく、前項でいう「現代人」的欲望であるとは簡単に言い切れない。おおよそ近代人的欲望なんだろうと思う。

でも、この欲望は資本主義が生み出した欲望じゃあないとも思う。

木村カエラという「人間」の欲望であり、「人間」の想像力だ。

 

そういえば、大人ってなんだったっけと最初に考えていたのだった。

もしも、消費の反復に慣れることが大人なら、別にこの社会で大人になれなくていいや。

『「ネオ漂泊民」の戦後』について書こうとしたら、とんでもないところにやってきてしまった。

結論はない。


小沢健二 Kenji Ozawa 大人になれば.flv - YouTube